「正しい」と思う感覚

少し難しい読み物が恋しくなり、いつだったか神足裕司が書評していた、ジェームズ・メイヨール『世界政治』 という本を読んでみました。

世界政治―進歩と限界

世界政治―進歩と限界


メイヨールは「英国学派」と称される国際政治学の重鎮で、この本では冷戦終結以降から現在に至る国際関係を主に、その本質とは何かを論じているのですが、その内容はさておき特に印象深かったフレーズがありました。
それは、

プルラリズム と 「ソリダリズム」

というものです。

前者は、多元主義というか個々の多様性を認めながら、問題を個別に解決していこうという立場のことであり、対して後者は、ある理念や信念をもとにして、その価値観を他者や世界に適用しようとする立場で、連帯主義、理念主義といえるものです。
ある限られた状況下や素地において「正しい」とされる理念を金科玉条のものと疑わず、他者にも当然「正しいもの」として押し付ける行為「ソリダリズム」に対して、筆者は主に近代以降における具体例を用い、現代のグローバリズムにいたるまで批判します。


僕の考えでは、道義的な面はさておき、双方の考えは一長一短であって、国際関係ではどちらが「優れている」「正しい」ということは言えないと思うのですが(どの立場にとって、何を目的とするかという意味においてです。念のため)、少なくとも人間関係においてはソリダリストであってはならないと思うんですよね。

というのは僕の考えの前提として、その「正しさ」をどのような論理において確信しているのか、その論理が想像の上でも理解できないからです。
宗教でも政治イデオロギーでも何でも構わないのですが、その信念が普遍であり、(たとえ暫定的であったとしても)無謬と思えるからこそ、世界に対して自分の「正しさ」を発露できるんじゃないかと。

自分が確信しているのであれば、確信に至ったその論理経緯ををもって他者を説得できるわけだし、そうであれば同意の上での(僕が考える普遍的な)「正しさ」が(二者間において)誕生するわけで、これここそ「正しい」「正しさ」だと思います。(なんのこっちゃ)


しかしながら実際のソリダリスト達は、そういった論理的手続きや、同意や妥協の上に成り立つ「正しさ」を理解しないわけで、無誤謬で絶対普遍の価値を妄信できるからこそ、ソリダリストたるわけです。
彼らの主観的価値は、彼らの「敵」が持つ主観的価値とベクトルは違えども同様なドグマであって、傍から見れば「言ってることは違えども、やってることは同じ」なんですね。


さてさて、何故こんなことを書いたかというと、僕は紛いなりにも近現代史学をプロパーで学んで、右翼研究(?、「玄洋社」の研究)をやったなんて公言してますから、たまに勘違いされる方がいらっしゃいます。
そこで「正しい歴史」とか言われると、「正しい」とは何か?、そもそも「歴史」とは何か?、なぜあなたはそれが「正しい」と知っているのか?、と言いたくなってしまう。

イデオロギー的にそっちの方であっても多少わかった人であれば、たとえば福田和也みたいに「歴史」や「国家」の幻想性を認めた上で、ツールとして「幻想」や「神話」の必要性を論じるのでいいのですが・・・。


それでもまあ個人の生き方とすれば、それも案外「正しい」のかも知れません。

この世の中に「正しいもの」と「信ずべきもの」が確固として存在して、それに反するものは「敵」であり「正すべきもの」として認識できれば、人生に迷うこともない。
「敵」が強大であれば生涯かけて闘えるわけだし、日々の生活にもハリが出るってもんです。それができる人って「幸せ」なんじゃないでしょうか。


うーん、自分の「正しさ」を確信している人は正しい。他人には迷惑ですが。