マス・コミュニケーション相対論

「人間の欲望は他者の欲望である」とはジャック・ラカンの言葉だったと思うが、まさに至言だと思う。

自分が自由意志によって選択している「決定」や「価値」とは、それほど確かなものではなく、生まれ育った文化、習慣、言語等さまざまなものに制約されていて、「意思による自由」なんてものは究極的に言えばありえないわけです。

そのような中で、「欲しい」「したい」という欲望一般は、果たして自分の欲望なのか?
世の多くの人間が「価値」と認め、求めるからこそ、その中での承認として欲望が発生するのではないのか、そんな話です。

前近代において、価値そのものが一元的であった時代、すなわち「神」であるとか「理性」であるとか、「豊かさ」に対しての選択肢が限られていた時代であれば、絶対性を持った「価値」にもある程度の説得力があったのだと思います。
世の中が貧しければ、多くの人にとって「飢えない」ことが「幸せ」という価値であろうし、無学であれば「神の真理」こそ価値基準となるわけです。


しかしながら現代においては、飢えないことや生命の危険が無いことは当然ですし、説得力を持った神も存在しない。
(他者の)「欲望」と、それを具現する貨幣がそれに成り代わって、価値基準とされているわけですが、それは共有された言わば共同幻想であって、その本質はやはり相対的なわけです。


そうは言っても、「価値の基準は自分である」なんて言われても我々は不安になるわけで、やっぱり他者を見てしまう。その対象は数が多ければ多いほど安心できるので、「マス=価値が高い」という幻想が、そこに生まれるのでしょう。



さてさて今日の本題。

書き込むことは殆どないのですが、2ちゃんねるの「ニコニコ生放送」スレッドを結構見てるんですよね。
そこでちょっと目にとまったレスがあったので抜粋します。



463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/24(火) 12:49:46 id:iew2NQ4Q0
>>430
確かに左官、オカイ、いよかん、緑、ヒーミみたいなマス型エンターテイメント配信者はもう出てこないかもしれない。
まぁアンチによるエンターテイメント型配信者叩きがその一因になっていることは認める。
しかし、おもしろいエンターテイメント型配信者が出てこなくなった一番の理由は出会い厨の増加だ。
彼らはニコ生を出会い系サイト化し、物凄い勢いでニコ生を完全なる「パーソナルメディア」に変化させようとしている。
エンターテイメント型配信者がいくらがんばっても出会い厨が増え続ければ、やがてニコ生は完全にパーソナルメディア化してしまうだろう。
ニコ生を「マス型エンターテイメント」として見ている人間はこれからは楽しめないかもしれない。
近い将来「ニコ生は出会いの場」としか認識されなくなり、優良配信者はニコ生に居づらくなって出て行くだろう。
その時がニコ生終焉の時だ。

http://pc12.2ch.net/test/read.cgi/streaming/1258987415/463


ネットに対してある程度経験や見識がある方であればお分かりでしょうが、ネット上(特に掲示板)での議論は非常に不毛です。いままで散々やってきて体感的に理解している方も多いでしょう。
人間は文字で書かれた文章のみで議論はできない。そもそも言葉というものはそのように出来ていない。
なので僕はレス返すことはしなかったのですが、このての書き込みにこそ、陥りがちな詭弁と欺瞞が内包されていると思うんです。


彼は「マス型エンターテイメント配信者はもう出てこないかもしれない」としたうえで、「おもしろいエンターテイメント型配信者」、すなわち「マス型=おもしろい」と論をスライドさせる。
個人が主体的に選択する「おもしろさ」に価値を見出さず、絶対的な「おもしろさ」なるものを規定するわけです。

かつて娯楽に選択肢が少なかった時代、人々はジャイアンツや力道山大鵬が好き、すなわち彼等が勝つことを「おもしろがって」いました。
テレビチャンネルの選択肢が6つ(首都圏の場合)しかなければ、おのずと「マス」が「おもしろい」コンテンツにもなるのでしょう。

しかし現代では、地上派、BS、CS、ケーブルTV、インターネット(これはさらに無数の選択肢がある)、DVD等の映像メディア、TVゲーム等々、人々が限られた余暇に選択できる「おもしろさ」は一様ではありません。
「おもしろさ」に付ける優先順位は人それぞれであって、何を選択する、「価値」がどこにあるかは断定できないわけです。

そうであれば彼の言う「パーソナルな配信」への評価も相対なわけで、現にそれを評価している彼等・彼女らは数あるマス型の配信、およびテレビ等のコンテンツをその時間に見るより「面白い」と思うからこそ、その「パーソナル」を見ているわけです。

僕なんかに言わせると、「マス型エンターテイメントの衰退」はニコ生に限ったことではなく社会一般に言えることで、ポストモダンで言うところの「大きな物語の崩壊」の一端でしょう。
同時に表れた1500のコミュニケーションなんて、宮台真司の「島宇宙」そのものじゃないでしょうか。

一見説得力があるようなレスですが、彼の念頭には「マス=高価値」「出会い厨=悪」という理解があって、それにもっともらしい語句を付けてのたまっただけです。
(僕もよくやるのでよくわかるのです(苦笑))



・・・とは言うものの、せっかくの表現の場であるのに、それをパーソナルにしか考えない配信者には僕も違和感を覚えます。
そこで一つ解決策を考えました。


それは、「パーソナルな表現でも、それがマスに向いていればいい」というものです。


なぜ「出会い厨」なるものが「叩かれる」のでしょうか。
それは恐らく、出会い、恋愛、という極めてプライベートな行為を目的に、恥ずかしげも無くパブリックな場を利用するからでわないでしょうか。突き詰めればそういうことだと思います。

彼等・彼女等らの「出会い」は、その当事者以外には何の価値もなく、その過程や結果はやはり私的なものです。
ならば、その私的な部分を「表現」すればいいのです。


なぜ、「あいのり」や「恋するハニカミ」は若者に見られるのでしょうか?
本来、個人の私的な行為であるはずの恋愛に共感したり、自己を投影できるのは、それが受け取る感覚として「リアル」に感じるからでしょう。
つまり、きっかけからその過程、結果に至るまでを表現として配信すれば、それは十分エンターテイメントになり得るわけです。



そういうわけで、そういう表現をやって行きたいと思います。
いや・・・相手による、というか、それで本来の目的が達成できるかは別の問題だったりしますよねぇ(汗)

ポスト・モダンの左旋回

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