ネットとリアルの「共有感」

オフ会企画の告知中に「出会い厨」との批判をいただきました。
はて、数ヵ月後の「生ドラマ配信」を目的としている以上、僕が「(異性との)出会い厨」である余地はないのでは?、と思いますが、説明が足りなかったのかも知れませんね。反省。

ということで、今回は昨日話したことの要約と、「ドラマ企画」についての妄想を書かせていただきます。

まず、今回の企画にあったって意識したもの、それは「見ず知らずの人間が集まって、何かをやり遂げる」ことの魅力です。
一銭の得にもならないことを、「面白そう」「参加したい」という気持ちだけで実現してしまう。こういう事が簡単にできるのが、ネットの特徴の一つだと思います。

遡れば、「湘南ゴミ拾いオフ(http://fuji1515.at.infoseek.co.jp/)」や、「スティーブさんの自転車を探すオフ(http://members.at.infoseek.co.jp/mostinteresting/index2.html)」にはじまり、
マトリックスオフ」

「止まってみた」

とか、最近では秋葉原でコスプレして踊ったりなんてのもありました。
ハルヒダンス」

これらは、TVなどのメディアにも取り上げられたので、ご存知の方も多いかと思います。
参加者たちは、ネットを通じて、見ず知らずの人間たちと目的を「共有」し、または「表現」することに価値を見出したわけです。

さて、ネットにおける価値や目的の共有といえば、最大のヒット作「電車男」が思い出されますね。
この「電車男」という作品の魅力とは、一体何なんでしょうか?

冴えないオタクの『電車男』が、ひょんなことから『エルメス』という女性に出会い、恋をする・・・。
いわゆる「ボーイミーツガール、フォールインラブ」というやつで、ストーリーとしては非常に凡庸、というか、ありきたりです。

では何故ヒット作になったのか?
僕が思うに、重要なキーワードはやはり「共有感」です。

この物語で、恋愛経験に乏しい『電車男』は、見ず知らずのネット住民たちに相談をもちかけ、ネット住民たちはそれに答えて指南する・・・。
作中(というか、実存したスレッド内)で、『電車男』と『ネット住民』の価値が「共有」され、さらには読者が「共有」したことで生み出されたムーブメントである。そんなふうに僕は考えます。

僕はこれらに参加したこともなく、その存在も後になってから知ったのですが、もし企画を知っていたらぜひ参加してみたかった。
「創作」や「表現」という行為は、人間誰もが持っている、ある種の知的欲求で、それが見知らぬ人間とできるなんて、素敵だと思うわけです。

現在黎明期にある「ニコ生」で、これができれば面白いし、何よりコンテンツ全体の活性化に繋る可能性もあります。これだけとっても面白い。
というのは、実感としてコンテンツ内で、視聴者の「細分化」と「固定化」を実感するにあたって、前述した企画を成功させれば、いろいろな放送の「選択の幅」を広げられるからです。

この先、放送枠の増加もあると予想され、ますます視聴者の好みは「細分化・固定化」されて、他の放送を見る機会が失われてしまうと思われます。
さらに、枠増加により良放送が埋もれてしまえば、初めてニコ生を利用した視聴者が、自分の好みの放送を見つけることができずに、「ニコ生って、つまらない」と判断してしまう可能性もあるわけです。そうなれば、どんどん「閉じたコンテンツ」になってしまい、衰退していく一方です。

これを回避する手段として、いろいろな配信者の意見が聞ける「放送リレー」や、「放送主ドラマ」が有効な役割を担える、と、僕は考えています。
この点だけとってみても、この「放送主たちによる、生ドラマ配信」企画の意義はあるのではないでしょうか?

今日はもう少し続きます。


「ベタ」で得られる共有感

では、その「共有感」、いったいどうやって作りだせるのか?、ちょっと考えてみました。

前述した「閉じた」云々と矛盾してしまうかもしれませんが、僕が考えるに、敢えて「ベタ」を作り出すことで、「共有感」を演出できるのではないか、と思います。
たとえば、作中で午前2時になると「どこからともなく(ニコ動の)時報が流れてくる」であるとか、何か選択を迫られる場面において「せっかくだから、俺は○○を選ぶぜ!」なんて面白いかも知れませんね。

もう一つは、企画に参加してない放送主の「カメオ出演」なんてどうでしょうか?
たとえば、作中で登場人物が何かに迷った場面で、別枠で放送中の「○○相談室」にスカイプして、相談する・・・これも「共有」のかたちだと思います。

最後に「あらし」問題です。
今回、脚本を依頼することになるかもしれない放送主さんに対して、企画参加を疑問視するコメントをいただきました。
このことについて考えていたのですが、「『あらし』とも共有できる放送にするのも面白いんじゃはないか?」なんて思いつきました。

というのは、「あらし」なんて表現すると、なんだか人格を想像しにくいですが、彼らは「その状況を楽しんでいる」だけであると僕は考えます。
「その放送を荒らす」ことが真の目的ではなくて、「荒らすことによって楽しむ」ことが目的だと。だから、「荒れていい」状況を作れば、それでいいわけです。

現に先日、「あらし」を扇動なさっている放送主さんから、放送中にスカイプ凸をいただいた時に、その場で企画の話をして、その放送主さんをお誘いしたのですが、それほど(凸された他の放送ほど)荒れなかった。
さらに、その日はコミュニティ参加人数が、いつもの2倍程度増加しました。
つまり、彼らは「面白さ」を求めているだけで、「放送をつぶす」なんて考えは薄いわけですね。

では「荒れていい状況」とは、どういうことかと言うと、たとえば作中に藤崎荘さん(名前出しちまったw)が出演した時だけ弾幕コメントとか、予定調和な「ベタ」となりうるわけです。(ということは、最後まで生き残るような主要人物に配役できない、という問題もありますが)

予定調和でいうならば、本企画への「叩き」なんて放送があっても面白いかもしれません。
「視聴者同士が、お互いの放送を荒らさない」という予定調和さえあれば、叩かれることで企画が周知され、叩くことで知名度があがる、こんなこともあるかもしれませんね。

こんな話、本職でプロモーションをされている方が見たら、一笑に付されてしまいそうですが、わりと僕は本気だったりします(苦笑)。


今日はここまで。次回は「著作権」と「お金のことについて」
少し触れると、こういう企画って、お金が絡むと途端にうさんくさくなるし、健全性が損なわれる気がするんですよね・・・。(続く)


封印された『電車男』 (Love & Peace)

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電車男 (新潮文庫)

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