カーニヴァル化する蒙昧①

さて、高校野球も終わりまして、いよいよ初秋といった感がありますが、皆様どうお過ごしでしょうか。

平日の午前中は、仕事をしながらNHKラジオをよく聴いているのですが、この時期は高校野球の中継があるので、いつも聴いている「ラジオビタミン」がやってないんですね。
野球自体はそれなりに好きなんですが、リアルタイムに中継を聴くほど熱心でもない僕は、代わりに放送大学やNHK第二を聴くことにしています。

先日、甲子園では熱戦が繰り広げられている最中に、たまたま選局したNHK第二ラジオで、放送されていた「NHK杯全国高校放送コンテスト」なるものを初めて知りました。
聞けば昭和29年から行われている由緒ある大会で、放送部員であれば誰もが憧れる夢の舞台、文化系の甲子園ともいえる催しなのです。

アナウンス・ドキュメント・朗読・ドラマなど、各部門ごとに、製作された作品を競うわけですが、入賞作ともなると、矢張りどれもクオリティが高い!。
発想や着眼点、問題への切り口、脚本、演出・・・、自分が高校生の時はおろか、三十路となった現在でもとても適わない、「素養と才能の違い」みたいなものをあらためて実感するに至ったわけです。

数年前に、hanaeの『小学生日記』を読んだ時や、フットサルの試合で中学生にフェイントで抜かれた時(これはよくある)にも身につまされた事ですが、未成年だからといって必ずしも未熟(成人よりも劣っている)なんてことはなく、力のある人間はどこにでもいるんですね。

考えてみれば、こうした創作・洞察・表現といったものに年齢は関係なく、大人だから子供より良いもの(より多くの他者から評価されるもの)を生み出せると限りません。
「子供」に比べて「大人」には、経験や知識の蓄積があることは認めますが、返ってそれらに縛られてしまえば、先入観から画一化された感性を抜け出ないわけで、表現的に「おもしろい」ものはできないわけです。

とはいえ、以前「すべての創作はコラージュである」と述べたように、経験や知識に裏打ちされない「おもしろさ」というのは、いわば「(既存概念に囚われないという)発想のおもしろさ」であって、「子供だからといっておもしろい」ということには、やはりならないわけです。

ですから、コラージュの材料としてそこそこの経験や知識の蓄積もあり、既存概念に染まりきっていない、という点において、高校生くらいの年代がする表現は「おもしろい」。
もはや「書けない」が故に、文壇や論壇に踏ん反り返っていた(いる?)、あの作家先生がたの最高傑作は往々にして少〜青年期に書かれたものだといえば、皆さんに納得いただけるのではないでしょうか。

小学生日記 (角川文庫)

小学生日記 (角川文庫)



そんなわけで、文芸的発展を思うならば、未成年こそ「表現」するべきだと個人的には思うんですよね。
「これはこういうものだ」と、常識に固執してしまったオッサンが「当たり前」のことを表現するより、悪く言えば「知らない」良く言えば「染まっていない」子供が「当たり前でないこと」を表現したほうが面白い。
(ネット普及以前の)これまでの社会では容易に為し得なかった、「公の場での表現の機会」に恵まれている現代、ネットというツールを積極的に利用して、どんどん表現していけばいいのです。
こと文芸面だけに限らず、あらゆる場所において、若い世代がネットを使って新しい発想をし、社会の漸進に寄与していく・・・なんて好むべきことだと個人的には思う次第です。



しかしながら、この「未成年のネット利用」、それなりに弊害も指摘されます。
僕も以前書いたのですが、「表現欲求が満たされてしまって、自己研鑽へと昇華し得ない」という問題がひとつ。
そしてもうひとつが、「有害情報に触れる」という問題です。

この「有害情報」なるものが、僕にはいまいちピンとこないのですが、要は「性表現、暴力表現」を指すらしいのです。
はて、「違法情報」ではなく、「有害情報」とは奇異に感じられますが(そもそも「違法」な「情報」って何だ?)、厳然たる事実として、社会に存在するものに目隠しをすることが、果たして正しいことなのでしょうか。
まあそこは線引きの問題なのかも知れませんが、この手の問題に対してなされる、ありがちな議論が「未成年はネットを利用するな」的なものです。


某匿名掲示板に書き込まれるような極論で、僕はこれが非常に面白くない。
そもそも、「未成年がネット利用にたいして未熟だから」というところを論拠にしているにも関わらず、なぜ責任を未成年側に求めるのか。
自分たちの行動が、未成年に「有害である」と自覚しているならば、主体性と責任を持つであろう「大人」が、自身の行動に留意すべきです。問われるのは、ネット利用に対して成熟しているはずの大人側の姿勢です。

つまり、この手の議論を好む「大人」の本音は、「俺たち大人の遊び場を侵害するな」的の、精神的には子供となんら変わりのない、縄張りの主張なわけです。
真に「大人」であれば、「子供」に対して、「どのように使えばいいのか、どのように使うのはいけないのか、どのように住み分け、どのように共有するのか」を共に考え、教え諭すことが求められる、そんなふうに僕は思うわけです。

ともあれ、一般にインターネットが普及してまだまだ日が浅い現状では、このような軽薄な議論がなされるのもいたしかたないのかもしれません。
というのは、この「有害論」、こと近代において、新しいメディアが普及するたびにくり返されてきたことだからです。

その昔、各戸に新聞が普及しはじめた時に、為政者は「衆愚の政治化」を危惧したのをはじめ、文学、ラジオ、映画、音楽、テレビ、ポケベル、携帯電話、インターネットと、
常に新しいメディアは、その使い手である「若者」と結びつけられ、既存の社会的価値を破壊するものとして攻撃される。

後の時代から見れば、その殆どは的外れな言いがかりにすぎません。
というより、テクノロジーの進歩が人々の生活様式を変え、生活様式の変化が新しい思想潮流をつくり、そのようにして社会は漸進していくものなのだから、社会的な価値感が変容するのは当然で、まあ反発も当然といえば当然なわけです。

その対象が現代ではインターネットであるわけで、かつ既存のメディアとは違い、見識や思索が乏しい個人が、簡単に(印象・感情だけで)情報発信できるメディアの性格上、そんな議論がまかり通っているのかも知れませんね。
(つづく)

ニコ生が出会い系化しているらしい② ※ただしイケメンに限る

前回の続き


個々人が主体的な選択のもとに決定し、結果に応じて責任を負う。この限りにおいて、誰が何をしようと自由であるはずです。
しかし「俺が気に入らないからお前もするな」という意見を、さも当然のようにのたまう人間も、往々にしているわけです。

さすがに大人になると、そこまで露骨な物言いは憚られますから、そこで彼らは「〜になる恐れがある」という言い回しを使います。
前述した「第三者効果」に基づき、「自分は大丈夫だけれど、リテラシーの低い人間は犯罪に巻き込まれる恐れがある」「子供の人格形成に影響を与える恐れがある」と、短慮だけれども(短慮が故かもしれないが)「声の大きい人たち」が、実証的な効能や統計を省みること無く騒ぎ立てる。
実際はそれほど大した「問題」でなくとも、マッチポンプ的に周知されて、多くの人が「そういう『問題』があるなら」と賛同してしまうのです。

ですから、「声の多きい」「他の人が言っている」「一見正論に思える」といった周囲に流されず、各人が自分の頭で価値判断をしなければなりません。
「何故いけないのか?」「事実として、そういう問題はあったのか?」「問題は特殊な事例ではないのか?」「問題はどの程度の期間、割合で起きているのか」など、あくまで実証的かつ論理的に思索してみれば、物事の本質が見えてくるはずです。


まあ、そこまで掘り下げるのには個別の事例まで取り上げなければならないし、色々な意味で面倒くさいので言及しませんが、今回「問題」視されている「ニコ生の出会い系化」なるものについて、僕は次のように考えます。



問題視されているのは「ニコ生を通して異性が出会う事」です。
出会いを目的としている人間、ないし出会った人間を「出会い厨」として「叩く」ことが、さも正当であるかのような空気が存在しています。
僕が思うに、このような価値観は「2ちゃんねる的」な、ある意味ちょっと古いネット利用の感覚じゃないか、と感じるんですよね。

殺伐とした空気が好まれる2ちゃんねるでは、過激な意見が書き込まれ、中傷合戦もよく見られる光景です。
これは、非同期かつ文字だけでのコミュニケーションであるがゆえに、ネットの向こう側にいる相手の人格や、感情を想像することが難しいために生じていて、現実のコミュニケーションとはある意味かけ離れているんですね。
そのような場で「個人的な関係」を築くことは難しく、現実から切り離された、隔絶した「ネット内での関係性」のみに終始することになるので、当然、リアル(現実世界)に繋がる情報(氏名、顔、職場、住所等)を公開することはないし、また、する必要もありません。

しかし、現実のコミュニケーションにおいて、「顔も名前もわからない」という関係はまず無いですし、お互いがお互いを知った上で、関係性に配慮したコミュニケーションを行っている。
その意味で「同期かつ、顔も感情も見える」ニコ生は、より現実に近いコミュニケーションと言えるわけです。


現実のコミュニケーションを考えると、色々な人間がいて、様々なトライブが存在します。
その無数に存在する価値観が、網状的に結びついて社会を構成しているのであって、そこには「日常的にナンパ行為をする人間」、「黙ってても異性を惹きつける魅力的な人間」、「同性・異性に関わらず、交友関係が広い人間」と様々な人間がいますが、これらを「叩く」という事が現実のコミュニケーションにあった時、一体どれほどの人間が賛同するでしょうか。
自分の交友関係の中で、それを壊すような行為が無い限り、殆どの人は「叩き」に参加しないんじゃないかと思います。それどころか、「陰口、いちゃもん」と捉えられて、疎まれるのではないでしょうか。


このような「現実」と乖離しているのが「2ちゃんねる的な空気」であって、僕が「より現実に近い」と論じるニコ生に、その空気を持ち込むのはナンセンスとしか言い様がありません。
時折、「馴れ合い批判」など、コンテンツ内で社会性を否定する配信者が現れる事もありますが、やはり誰もが現実社会を生きている人間ですから、徐々に社会化(つまりは他配信者との「馴れ合い」。まあそもそもコメントとコミュニケーションしている時点で、ネットを介しての「馴れ合い」と言えなくも無いが)していく例は枚挙に暇がありません。(他にもファナティックな思想の持ち主が、配信を続けるうちに穏健化したりすこともあって、これも観察していると面白い)


少し話がズレましたが、僕が思うに、「現実の社会にあるコミュニケーションを、特殊な場所だけで適用される倫理観によって否定する」非常に馬鹿げている、ということです。
そもそも「俺が気に入らないから、お前もするな」という言動に対して、「それは貴方の価値観です。私は私の価値観によって行為し、何と言われようと貴方の意見に従いません」と返されたら、論者はどうするのでしょうか。
論を尽くしても相手が自分の思い通りにならなければ、行き着く先は「○○しなければ殴る」という様な、脅迫か暴力の直接行使しか残りません。
つまりは「俺が気に入らないから、お前もするな」という言動自体が、ネット上で貶めらる「DQN」の行動原理と類似したものであって、このような主張をさも当然にするような人間こそが、「叩かれる」べきものじゃないかと思います。


最後に個別の事例に少し触れれば、人気女性配信者と交際(?)した彼を「叩く」理由が僕には分からない。むしろ彼の努力と行動力を賞賛すべきなんじゃなかろうかと思います。
別の事例で、「配信者にやり逃げされた」とブログで告白した彼女も、自分で主体的にセックスをして、自己の判断と決定によって避妊をしなかったわけですから、これは相手の男性を含め「私的」な問題です。

これらを持って「コンテンツが悪い」「規制が必要」と論じるのは、「包丁があるから殺人が起きる」的な論理の飛躍であって、問題とされるのは「行為」自体であるべきだと僕は考えるわけですね。
ネットだろうが出会い系だろうが、現実世界に繋げる「ツール」として有効に活用して、男女が出会おうが、友達作ろうが、当人たちがよければそれでいいじゃないですか。
それがきっかけになって、一生付き合える相手に出会えた・・・なんてことがあったら素晴らしい。そう思う僕は異端なんですかねぇ。


次回は「出会い系サイト」か、「未成年の配信」について書く予定です。

今回の参考書籍↓

インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か

ネットいじめ (PHP新書)

ネットいじめ (PHP新書)

ニコ生が出会い系化しているらしい① ※ただしイケメンに限る

ここ最近の覚醒剤事件の報道を受けて、動画というか、スライドショーみたいなものを製作してみました。
かなり適当に作って、手直しもしなかったので出来は悪いです。まぁ、WMMのテストのつもりです。(単にタイマーズの曲を使いたかっただけ、ということもありますが)

そんなわけで、昨夜は2週間ぶりに配信しました。
「『自己責任論』と、リバタリアニズムの相関性」、「人は『私的』に規則にしたがうことはできない」等々、何処かで聞いたような話まで持ち出して、現代における薬物事犯を、ある意味「擁護」したんですね。
その他にも、僕が知る限りにおいての薬物売買の実態や、薬学作用、関連書籍の紹介を行い(元BURST読者ですから)、「ことさら危険性を誇張する報道、啓蒙はフェアじゃない。客観的な統計に基づいて議論し、その上で『規範』を論じればいい」と、一席ぶったわけです。

しかしながら、早計な人に誤解されるのも嫌だし(客観的統計に基づいて議論し、その上の「規制強化・厳罰化」であっても構わないわけですから)、何より利用規約の「違法薬物使用、脱法薬物使用等を勧誘・誘発・助長するような行為」に触れる恐れがる。
そこで僕がとったスタンスは、「薬物汚染の実態に警鐘を鳴らす」という枕詞を使い、問題提起をする、というものです。


でもこれって、よくよく考えてみると、矛盾に満ちているんですよね。
「報道や議論がフェアじゃない」と言っておきながら、最終的には自分自身の言動も、特定の立場に縛られ、社会通念・規範といった既存の価値観に迎合してしまう。
そうせざる得ない原因は、発言の場が誰でもアクセス可能な「公の場」であり、そこの他者の目があるからなんですよね。

突き詰めて私的な場であれば、どんな反社会的な発言でも限りなく自由なわけですが、サークルや学校、職場等の場所では、それなりに「空気を読んだ」言動が求められます。
BBS・ブログ・ストリーミング等のネットであっても、その場所には「空気」が存在していて、僕はそれを無意識的に「読んで」迎合したのですが、これはテレビ・新聞等の報道全般にも言えることなんですよね。
そこで「読む」ことを要請される「空気」とは、まさに社会の共通認識としての「規範」であり、それを読んだ表現は、当然保守的なものとしかなり得ないわけです。
つまり、テレビが「公」のものである以上、私的に「フェア」でなくても構わない。伝統的・一般的な価値観を踏襲していることが「正義」なのですから。

世間一般に迎合してフェアでない僕自身が、報道や交わされる議論に対して「世間一般の価値観に迎合してフェアでない」と批判してたわけで、自分が出来ない事を他人に求めていた、ということです。
しかも、「メディアの不公正さを問題視する奴に限って、中立な物言いができない」とか、「政治話が好きな人間に限って、その言動は政治的でない」という批判は、僕が散々批判してきたことでもあり、自家撞着もいいところです。

まあ結局何が言いたいかというと、物事を判断する時、人は考えているようで実はあまり考えてなくて、自分の「直感」みたいなもので判断する、ということです。
しかし、その「直感」の根本は、自分がこれまで過ごしてきた社会が持つ価値観であったり、文化や言語、これまで受けてきた教育といった、ある種の先入観に基づいているのですが、「世間の価値観」も同様に個人の「直感」の集合ですから、コミュニケーションとして正しくても、論理的に正しい(筋が通っている)とは限らないわけです。


その際たるものが、例の「出会い・馴れ合い」批判です。
「出会い」や「馴れ合い」が、悪いもの、批判すべきものとして当然のように語られていて、何故「出会い・馴れ合い」が悪いのかといった議論がなされていません。
されたとしても「犯罪につながる恐れがある」といった大雑把なもので、「コンテンツが犯罪に関わる」ことと、「コンテンツによって犯罪が生じる」ことも区別できていないような、稚拙かつ浅はかな議論ばかりが目につきます。

そもそも「恐れがある」「可能性がある」といった物言いがまかり通ること自体、言葉の裏に「自分は大丈夫だけど、他の阿呆どもにとっては危険だ」という論者の驕りが見えてしまって、個人的に嫌悪感を覚えます。
たとえ意識されていないにしても、「自分は他人より優れている(もしくは、『他人は自分より劣っている』)」という思い上がりは、一体どこから来るのかと。お前が大丈夫なら他の人間も大丈夫だろと。そんなふううに思います。
まあこれなんかは典型的な「第三者効果」という心理作用なんですが、とかく誰しもが他人に干渉したがるは何故なんでしょうねぇ。「出会い」だろうが「馴れ合い」だろうが、やりたい奴が好きにやったらいいじゃん、と僕は思うのですが・・・。

時間が無いので今回はここまで。次回に続きます。

「知らない話をするな」の感覚

「最近のテレビがつまらない」なんて話をよく聞きます。

かくいう僕もその一人なのですが、考えてみると、僕が子どもの頃、父や祖父も「テレビがくだらない」なんて、よく言ってたような気がします。
彼らが「くだらない」と評していたのは、ミュージックステーションなどの歌番組やドラマ、お笑いバラエティー番組の事で、テレビ自体を「くだらない」と言っていたわけではないんですね。
では何を見ていたかというと、ニュースや教養番組、ドキュメント番組、ようはNHKです。つまり彼らは娯楽番組を指して「くだらない」と言っていたんだと思います。
でも、母や祖母や子どもだった僕にとっては、教養番組やドキュメントよりも、ドラマやバラエティーのほうが魅力的だったわけで、むしろ小難しいNHKの番組のほうが「つまらない」ものと感じられました。

しかし大人になってみると、自分がかつて見ていたような番組を指して「くだらない」と言っているんですね。
子どもの頃に、あんなに面白かったドリフやひょうきん族を見ても、面白いとは感じないのです。ということは「最近のテレビ」がつまらないわけではなく、単に自分の嗜好が変化した、つまり歳をとっただけということになります。
いつのまにか僕も父や祖父のように、NHKのドキュメントばかり見るようになっていて、それは子どもの頃と違って「面白い」と感じるわけです。
いっぽうで、万年躁病的な民放のバラエティーは、見ていて「くだらない」。

要は客観的に、テレビが「つまらなくなった」わけではなく、主観の変化の結果「つまらなく」なったと言えます。


そんなわけで、それなりにテレビも見るんですが、必ず見る時間は朝の出勤前です。

芸能ニュースやエンタメ情報にさして興味がない僕が見るのは、NHKの「おはよう日本」か、BS1の「ワールド・ニュースアワー」。
「赤坂のグルメ情報」やら「いまドキのトレンド商品」といった、同時間に放送している民放各局の番組とは違って、時折「へ〜、そんなのがあるんだ」と思わず感心してしまうような物を知ることがあって、「面白い」と思うわけです。

今日の「おはよう日本」で見たのは「派遣僧侶」。
檀家の数が少なくて、あぶれている(?)お坊さんを派遣会社が雇い、普段お寺と付き合いのない人たち(核家族等、都市生活者)の葬式や法事に派遣する、といったビジネスがあるそうです。
派遣会社から来るお坊さんのあげる念仏じゃ、なんだか有難味が薄いような気がして、そこまでして形式だけの弔いをやる必要あるのか?、と個人的には思いますが、結構な需要があるらしい。
こういうNHKらしい特集が、僕にとっての面白さだったりするわけです。
「ワールド・ニュースアワー」は、CNNやBBC等、各国のニュース番組の翻訳ですから、日本とは異なった事象・文化の側面が「発見」できて面白いですね。

仕事中に聞くラジオも、NHK第二がお気に入りです。
午前10時代の「お話でてこい」「カルチャーラジオ歴史再発見」「朗読」は毎日必ず聞いています。
「お話でてこい」は童話の朗読なのですが、その題材は時として、フィンランドやらノルウェーやら、聞いたこともない超マイナーな(日本では)話で、とても興味深い。
「朗読」は、その名のとおり文学作品等の朗読なのですが、語り手の上手さと、これもまたマイナーな選書加減(大学の図書館じゃないと手に入らないレベル)に、思わず聞き入ってしまいます。
「カルチャーラジオ歴史再発見」は、大学の講師による、一般向けの講義です。学生向けの放送大学より、とっつき易い。

帰宅してからも、「特報首都圏」だの「NHK(BS)スペシャル」だの「クローズアップ現代」だの「青春リアル」だのとNHK三昧なわけですが、僕の、この「面白さ」って何なのでしょう。

変わった商売がある事や、マイナーな文学作品を知ったからといって、何だということもないのですが、このことに限らず、「知らないことを知る」というのは心地よかったり、喜びだと僕は思うんですよね。
自分が知らないこと、未知なものは無数にあるわけで、その無数の「未知」を一つ一つ「既知」に変えていき、その知識自体は何の役にも立たないのだけれど、その積み重ねによって自分というものが陶冶される。
その知識を獲得していく過程が喜びなのではなかろうかと。

個人的にそんなことを思うのですが、ニコ生で配信していると、たまにこんなコメントに出会うんですね。

「(俺の)わからない話をするな」

これが僕にはちょっとわからない。

確かに僕の配信は、何か一つのジャンルで一貫しているわけではなく、サッカー、サブカル、文学、哲学、政治(学)、猥談、取り留めのない雑談・・・と広範にやっていましたので、こういうコメントを貰うのは当然といえば当然です。
ですが、「知る」というのは「面白さ」なんじゃなかろうかな、と僕は思うんですよね。

しかも、配信にしろ、ブログにしろ、掲示板の書き込みにしろ、アクセスしているのはネットであって、「未知」に対して「知る」ことは容易です。
ググる」というネットスラングもあるように、簡単に詳細を知ることができるはずです。はてなでは自動的にキーワードをリンクしていて、わざわざコピーする必要すらない。
ですが、なかにはそれすら面倒くさがる人もいるようで、それじゃあ、せっかくのインターネットも持ち腐れなんじゃないのかなぁ、なんて思うわけです。

まあ「そこまでするほど興味がない」と言われれば、それまでなんですが(笑)。


ハーバーマスやトフラーを引用して、ニコニコ生放送は「共有空間」だの「相互作用」だのと、さんざん論じていましたが、他チャンネルやネットの趨勢が生んだ潮流として、「未知を知る喜び」よりも「既知の共有」に重きを置く時代になりつつあるのかもしれませんね。



それにしても、この時期のNHKは戦争の話ばっかりで鬱陶しいなぁ。はやく8月終わらないかなぁ。



今回の参考↓
文化系トークラジオ Life: 2009/01/25「未知との遭遇」(佐々木敦、さやわか、吉田アミほか) アーカイブ

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

夏休みの宿題・読書感想文のススメ

ファストフードが世界を食いつくす

ファストフードが世界を食いつくす

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

そんな話題が特に好き、というわけではないのですが、エリック・シュローサーの『ファストフードが世界を食いつくす』を読みました。
ちょっと前の本なのですが、アメリカの産業構造と苛烈なまでの資本主義、経済政策の「自由」が生み出している暗部を明らかにした全米ベストセラーのノンフィクション・ルポタージュ(この言い回しはおかしい?)です。
内容は、マクドナルドに代表されるファストフードチェーンと関連企業が、市場効率や利潤を最大限に求めた結果、アメリカの社会構造に大きな弊害をもたらしている・・・といったよくある警鐘モノなんですが、これが非常によく書かれています。
翻訳のせいか少し分かり難い部分もありますが、400ページの分厚い本で読みごたえもあり、上に挙げた『貧困大陸アメリカ』と合わせて読むと、経済効率と合理性を理想とする国。アメリカが抱えている矛盾の一端が見えくるのではないでしょうか。
日本も規制緩和の折、某大手流通企業が農業に参入してコストダウンを目指している、という報道がありましたが、効率化の行き着く先にあるものは・・・なんて考えると、とても他人事とは思えませんね。


しかしまあ、この手の読み物が好きな人に限って、「アメリカの世界支配が云々」とか「政府が『勝ち組・負け組み』の構造を意図的に作り出して、人々を戦場に送ろうとしている」とか、安易な善悪二原論を展開しがちですが、「誰が悪い」「何が悪い」といった単純な問題ではなく、こういう矛盾の内実は、僕たちが生活している世界の構造そのものの矛盾が発露した結果なんじゃないかな、なんて思います。
言い換えれば、企業の目的は「利潤の追求」なのだから、儲かるならば何でもするわけだし、そのための社会に対する働きかけ(例えば、政治や立法にたいする業界のロビー活動)も当然と言えば当然なわけで、そこでは個人的な倫理観やそのほかの価値の意義は、比較として小さいものとなっても、これもまた当然の帰結といえるわけです。

そうであるならば、統合による市場の独占も、効率化による労働力の搾取的運用も、社会の階級化も「誰が悪い」「何が悪い」といった性質の議論ではなく、企業や政治に携わる個々人は「己の為すべき事を為している」にすぎず、企業や政治そのものも、存在意義としての「目的」があるにすぎない。そこに「何が悪い」といった単純な議論を持ち込むならば、「資本主義そのものが悪い」としか言いようが無いわけです。
しかしながら、決定的に構造化した、現代の僕達の生活も恩恵を受けている「世界」そのものを、簡単には否定できないわけで、いずれにしても暫時に解決できる問題ではありません。

まあこの辺の、資本主義、市場原理主義、消費者主義、等々に対する議論は、19世紀から様々な人々がしてきた問題なので、ことさら言及しませんが、要は、似たような本ばかり読んで、それを真に受けて、複雑な事象が絡み合って存在してる問題を単純化して、簡単に「答え」を出すな、という事です。
よく「本の毒にあたる」なんて言いますが、純粋でまっすぐな(であろう)中高生は、熟読よりも多読を心がけてくださいね。特に社会科学や時事問題、政治思想系は、反対論者の本も合わせて読みたいところです。(そんな若い奴が、こんなブログを読んでるわけない気もしますが)





さて、今回の本題・読書感想文。
子供の頃からそこそこ読書はしていた僕ですが(西村京太郎とかだけど)、「感想文」とか言われると、非常に困ったんですね。「この本を読みました。面白かったです。」でいいだろうと。「感想」なのに「面白かった、つまらなかった」以外に何があるのかと。

それがどうしたことか、今はこうやって紛いなりにもブログなんか書くようになったわけですから、体験的に培った「書き方のコツ」みたいなものと、を少し紹介します。
対象は、感想文が苦手な中高生ですから、読書好きな方、作文が得意な方は読み飛ばしてください。


本の選び方


読書感想文は、学術論文やブログのように多数の読者に向けて書くものではありません。先生(国語教師)一人に向けて書くものですから、本選びにも相応の注意が必要です。

たとえ流行っていようが、面白かろうが、教師ウケする作品を選ばなくてはなりません。ライトノベルなんてもってのほかです。「純文学」に分類される作品を選びましょう。
といっても、マルキ・ド・サド『ソドム百二十日』とか、マゾッホ『毛皮を着たビーナス』とか、沼正三家畜人ヤプー』なんかは問題外です。文学的評価がされてようがダメです。下手すると学校に親が呼ばれたり、カウンセリングを受けさせられるハメになりかねません。ともすれば三島由紀夫谷崎潤一郎でも危ないです。注意しましょう。

太宰治夏目漱石などの、ある意味スタンダードな作品もお薦めできません。
貴方の作文を評価する先生の年齢が幾つか分かりませんが、相手は国語教師です。大学では、まったくツブシの利かない「文学」なんてものを専攻した変わり者(?)ですから、きっと学生時代から本の虫、古典文学なんかはきっと何度も読んでいて、独自の文学論をサークルや同人達と語り明かしたに違いありません。
こんな連中に向かって「僕は先生とKに対する心情が理解できます」とか、「『自分』は人間失格と理解したがゆえに、世界から解放されたのだ」とかのたまわれば、「ふざけんなクソガキが!、お前に漱石(太宰)作品の何が分かる!」と思われかねません。
加えてこれら古典小説は誰もが感想文を書きますから、作文が苦手で読書嫌い、感性も乏しいであろう貴方の拙い感想文が、読書大好き優等生のもやしっ子が書く秀逸な感想文と比較されて、相対的に評価が下がります。
なおかつ古典小説というものは、文章、表現が現代人には難解です。時代背景や当時の人間の感覚みたいなものに対する理解が必要であるため、ゆとり教育の被害者でありゲームやインターネットやマンガばかり読んでいるであろう貴方が読んでも、ちっとも面白くないことでしょう。面白くなければ読み進めるのも苦痛だろうし、感想文も書けません。



では、どんな本を選べばいいのでしょうか。


その①:ティーンエージャー、もしくは世代が近い、若い作家の作品
個人的な推察ですが、面白いと感じるかどうかは、「どれだけ感情移入できるか」、「どれだけリアルか」の問題だと思います。
突拍子もない事件や、荒唐無稽な世界観を描いた作品も面白いことは面白いのですが、作品世界の整合性や主人公の行動や感情があまりに突飛では常人には理解できませんし、感想文も書きにくいでしょう。

僕も経験があるのですが、ティーン小説の大家なんて評される作家先生の書く作品を読んでいて、物語しては面白いのだけれど、言葉の使い方や感覚、感性がズレていて、なんだか違和感を覚えたが最後、徹頭徹尾それが気になってしまう・・・なんてことになったら、感想どころではありません。
まあ、そういう作家の「ズレ」を一つ一つあげつらって、作家性を論評する、というのも一つの手ではありますが。

ともかく中高生に近い年代の作家の作品であれば、きっと貴方と共通の感性もあって容易に作品世界に入り込めるでしょう。
しかも先生は普段、岩波文庫中央公論新書や、芥川・直樹賞、三島由紀夫山本周五郎賞本屋大賞あたりの作品は読んでいても、この手の小説は読まないでしょうから、安心して感想文が書けます。ポイントは「先生が読んでいない」というところです。

お薦めは、木堂椎『りはめより100倍恐ろしい』、白岩玄野ブタ。をプロデュース』、島本理生『リトル・バイ・リトル』。
物語の舞台も学校や家庭ですから、作品世界に自分を投影して、終始「僕が○○だったら・・・」とか「○○な事件は、現実に僕の周りでも・・・」と、お茶を濁しておけば、中高生らしいナイスな感想文が書けることでしょう。

りはめより100倍恐ろしい (角川文庫)

りはめより100倍恐ろしい (角川文庫)

野ブタ。をプロデュース (河出文庫)

野ブタ。をプロデュース (河出文庫)

リトル・バイ・リトル (講談社文庫)

リトル・バイ・リトル (講談社文庫)


その②:映画化・マンガ化された作品
ゆとり教育の被害者であり、ゲームやインターネットやマンガばかり読んでいるであろう貴方が、普段しない読書をするのは非常に苦痛だと思います。「映画やマンガを読んで感想文書けばいいんじゃね?」という安易な発想に陥るのは当然です。
しかし世の中そう甘くはありません。映画やマンガを見ただけで、いざ感想文を書こうと思うと、所定の枚数を埋めることに苦労することになるでしょう。
作文が得意、「自分の体験」をでっち上げて、作品に関連付けて書くのが大得意、という表現力豊かな人間でなければ、だらだらとあらすじを書いて埋めることになり、感想文としての体をなさないものとなるでしょう。
ことさら表現力が乏しければ、あらすじを書いてやっと原稿用紙一枚、なんてことになりかねません。ですから映像作品は、あくまで補助的なものとして利用しましょう。
そもそも文体も内容も軽い現代文学の作品なんて、1日2日かあれば余裕で読めます。テレビやネットやゲームさえしなければ余裕です。
注意したいのは、先に映画やマンガを見ないことです。売れた作品というのは、起承転結あってそれなりに面白いはずです。しかし映画やマンガを先に見てしまうと、筋が分かってしまい、ただでさえ苦手な読書がより退屈なものとなります。注意しましょう。

サッと読んで、そのあとに映画やマンガでおさらいして感想文に取り掛かります。
映画化・マンガ化されていれば、文学作品単体より多くの人の目に触れていて各所で感想が述べられているはずですから、それらを積極的に利用しましょう。読書好きの書評なんてものは、ちょっと教養じみていて言い回しも何だか高尚で、中高生の感想文の参考にはしにくいですから、一般的な映画好き、マンガ好きの感想を パクリ 参考にします。そうですね、amazonよりもmixiのレビューほうがバタ臭くて参考にするには適しています。できるだけ若年(女子大生あたり)のレビューを参考にしましょう。
あとは筋を追いながら自分のリアルな経験をでっち上げて心情を吐露したり、「この描写の意味するところは〜」とか適当に書いておけば、それなりに様になります。
それで文字数が埋まらなければ、「この作家のほかの作品では○○であったが、本作では○○となっていて、心境の変化が伺える」という、他作品に関連づけるのも手です。比較する作品は原作を読んでいなくても構いません。どうせ1行か2行のことですから。
この手を使うならば、伊坂幸太郎あたりの角川作家の作品を選びましょう。

あと、間違っても「主役の豊川悦司がカッコよかった」とか書かないように。
お薦めは、奥田英郎『サウスバウンド』、滝本竜彦『NHKにようこそ!』、市川拓司『そのときは彼によろしく』、伊坂幸太郎アヒルと鴨のコインロッカー』等々

サウスバウンド 上 (角川文庫 お 56-1)

サウスバウンド 上 (角川文庫 お 56-1)

NHKにようこそ! (角川文庫)

NHKにようこそ! (角川文庫)

そのときは彼によろしく (小学館文庫)

そのときは彼によろしく (小学館文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)


その③:反戦モノ
作文は苦手、文章力や感性は乏しいけど、高評価を得たい、内申点を上げたいという貴方は反戦文学をお薦めします。
大体、教師になろうなんて奇特な人間は、純粋まっすぐな教条主義者に決まっています。間違いありません。特に 授業や校内行事で政治的信条を明らかにされるようなアレな先生であれば 平和教育に熱心な真面目な先生であれば、その効果は絶大です。
上手くいけば校内優秀作として表彰や、先生の勧めで地元の新聞に投稿されて商品が貰えるかもしれません。そうなれば受験の時に有利です。これはもう書くしかありません。

ポイントは、とにかく「戦争は悪い」「軍人は悪い」「すべての人間は権力の被害者、犠牲者」と一貫して主張すること。
「この時代には、これが正義である」とか「敵軍に対しての自衛戦争の側面もある」とか「価値観・倫理観は、時代や場所、見る人間によって変わる」なんて、間違っても書いてはいけません。とにかく戦争や軍隊や権力は悪なのです。場合によっては「国があるからいけない」ぐらい書いても構いません。
たとえ貴方が大東亜共栄圏の理想に燃えていようが、日本再軍備核武装論者だろうが、反中・反韓レイシストだろうが、貴方の目的は先生の高評価を得る事なのですから、徹底して反戦を書きましょう。
どうせ大人になって社会にでれば、自分の理想や信条を貫くなんてことはできません。たまにそういう人もいますが、世間からは「独り善がりの社会不適合者」扱いされて冷や飯を食わせれるのが関の山です。
「目的のために自分を曲げる」「理想よりも実利をとる」、それが大人への第一歩です。

かくいう僕も、学生時代に180度信条の異なる、活動家崩れのアレな先生が日本国憲法の講義をしていましたが、テストでは「権力と衆愚が生み出す暴力であり、暴走を許さない為にも、我々市民の監視の目が必要である!」と、力強く書いてA+の評価を戴いた経験があります。これぞ大人の選択というやつです。
というわけで、迎合してでも高評価を得たいならば、反戦文学で感想文を書きましょう。いざ戦わん、いざ、奮い立ていざ!


お薦めは、大岡昇平『野火』、遠藤周作『海と毒薬』、ちょっと高尚ぶるならレマルク西部戦線異状なし』もいいかも。
応用としては、冒頭で紹介したような反資本主義もいいかもしれませんが、こちらは少し素養が必要かも。文学作品としてはスタインベック怒りの葡萄』とか。

野火(のび) (新潮文庫)

野火(のび) (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)

西部戦線異状なし (新潮文庫)

西部戦線異状なし (新潮文庫)

怒りの葡萄 (上巻) (新潮文庫)

怒りの葡萄 (上巻) (新潮文庫)





最終手段:本を読まなくても感想文は書ける!

あまりお薦めはできませんが、提出期限が迫ってきてどうしようもない人のために、最後の手段を紹介します。
想像力と作文力に自身がある人向けではありますが、永岡書店という出版社からこんな本が出ています。

日本・名著のあらすじ (コスモ文庫)

日本・名著のあらすじ (コスモ文庫)

その名も『日本・名著のあらすじ』!
作品の冒頭文、内容の要約、作品の読みどころや、作者・作品の略歴とエピソードなんかが紹介されている本で、本来はレファレンスとして使うべき本なのでしょうが、感想文にも応用できると思います。
とは言っても、一冊のつき5,6ページの解説なので丸写しで紙幅を埋めるのは到底不可能です。そもそも丸写しは著作物の盗用ですし、パブリックドメインだったとしても、モラルに外れる行為です。中高生のうちからそんなことをしていては、ロクな大人になりません。
同じパクるにしても、自分なりに改変して、パクリに独創性を持たせましょう。前述のmixiレビューの参考にも言えますが、たとえば他人の感想文を参考にしたとしても、そのまま丸写しはせず、自分の言葉で組み替えるのです。
それだけではまだまだ盗用の域を出ませんから、さらに他の感想文も参考にします。最低3,4の感想を参考にして、自分の言葉で書き換え、コラージュするのです。
それでも後ろめたいのであれば、「これ読むまで気づかなかったけど、俺もそう思った!」部分だけ戴くわけです。くどいようですが、表現はあくまで自分の言葉に書き換えること。
あとは想像力で適当にでっち上げる。前述の『日本・名著のあらすじ』から冒頭文を再引用して、想像をめぐらして紙幅を稼ぎます。ちょっとやってみましょう。

作品は、川端康成『雪国』



 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
 「駅長さあん、駅長さあん」
 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

この本を選んだ理由は、この冒頭の文に惹かれたからだ。僕の父親の田舎は新潟にあるので、毎年冬休みは家族で帰省する。今は新幹線で窓も開かないし、三等客車もないのだけれど、冬には必ず積もっている雪と寒さと、「長いトンネルを抜けると雪国」という景色は、毎年僕が見ている雪国そのものだ。


はい、なんかソレっぽいでしょう?。ちなみに僕は父の実家が新潟でもなければ、越後湯沢に行ったこともないのですが、そこは想像力でカバーです。
実際に自分が書いているのは1行半なのですが、このように引用+感想を上手に使って導入し、内容については他人の感想文をコラージュしてでっち上げ、最後の3,4行を再度自分の言葉で締めれば、それなりの体になるはずです。
あとはこの辺のサイトを利用するのも手ですが、くれぐれも丸写しは駄目ですからね。
自由に使える読書感想文は学校提出目的に限り著作権フリーです
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雪国 (新潮文庫)

雪国 (新潮文庫)


とまあ、長々と書いて来たんですが、自称読書好きな僕としては、感想文はともかくとして本を読んでほしいわけです。中高生でなくとも、ちょっと面白そうだなと思えば是非読んで貰いたい。
ゲームやマンガ、映画、その他の趣味に比べれば、読書なんてお金のかからない趣味ですし、知識や見識の陶冶というか、読書で得られるモノってあると思うんですよね。amazonのリンクを貼ってるのも、読書のきっかけになればという思いからです。(アフィ嫌いの方に念のため断っておくと、僕が紹介するような商品で得られる金額なんて、一冊売れて十数円です。単行本、文庫など複数商品がある場合は、必ず安いほうを紹介するように心がけています。ちなみに2月からの累計実績は120円くらいです。買ってくれた方、ありがとうございました。)

人間も本も、付き合ってみないと分からない、読んでみないとわからりませんから、より多くの本を読んで自分の人間性を育てていければいいんじゃないですかねえ。
某宗教団体機関紙のラジオCMでも言っているように(?)、「本嫌いは食わず嫌いと同じ」なのかもしれませんね。って、何の話だこれは。

ともあれ、読まずに感想文を書こうと思ってる人は、来年はちゃんと「読書」感想文を書いて下さいね。

埋もれた「おもしろい」

先日、ヤマザキナビスコカップ(ほぼ消化試合ですが)を観に名古屋へ行ってきました。
ちょうど仕事が夏休みということで、ツーリング(?)がてら、高速に乗ることができない100ccのスクーターで12時間(休憩含む)ほど、国道1号線を延々と・・・。


途中、前が見えないほどの大雨に降られたり、真っ暗なバイパスでトラックに煽られたり、知らずに泊まったサウナがホモの方々が利用する、いわゆる「ハッテン場」だったりと、波乱に満ちた小旅行だったのですが、まあ普段できないような非日常を経験できて、それなりに楽しかったのではないでしょうか。



さて、サッカー好きが嵩じて日本全国、至る所へ遠征する僕ですが、この名古屋という場所、東京から行くには非常に中途半端な距離なんですね。
今回のように一般道で行くならば一泊になるんでしょうが、高速道路を利用すれば4,5時間で帰れてしまう。新幹線ならば2時間です。
しかしながら、さすが三大都市だけあって独自の文化というか、独特の雰囲気があるので、「名物でも食べて観光して帰りたいなぁ、一泊しようかなぁ」なんて気分になってしまいます。
とはいえ、目的はサッカー観戦、より多くアウェイに遠征するためには余計な出費は避けたいのも、われわれ貧乏サポーターの正直なところです。

そんなわけで僕は、名古屋に遠征しても必ず日帰り、もしくは夜行バスで車中泊だったわけです。
なんですが、2年前の遠征の時、少し余裕があって、初めて一泊したんですね。

どうしてお金があったのかは思い出せませんが、味噌カツ手羽先、ひつまぶし等々、名古屋グルメを堪能しつつお酒を飲んで、ホテルで一泊。
翌朝6時半に目が覚めたので、ローカル局でニュースでもやっていないかなと(個人的に、ローカル番組鑑賞は国内旅行の楽しみの一つだと思う)テレビを見ていると、シュールというか、おかしなアニメが放送されていたんです。

その名もやっとかめ探偵団

やっとかめ・・・やっとかめ・・・
名古屋弁で「久しぶり」を意味するこの言葉、名古屋グランパスのサポーターが、FC東京や東京ヴェルディに勝利した時に「東京は〜まぁあかん〜♪」と歌う、つボイノリオの『名古屋はええよ!やっとかめ』の歌詞で意味は知っていたのですが、東京から来た僕にとって、日曜朝7時のアニメ番組のタイトルにそれは衝撃的でした。

福岡で見た「めんたいワイド」もそうですが、東京で生まれ育った僕は、こういうご当地色の強いテレビ番組に興味を惹かれます。
しかもこのアニメ、タイトルだけでなく舞台も名古屋で、登場人物もほぼ全て名古屋弁を話し(声優も尾張地方の出身者をキャスティング)、オープニング曲やエンディング曲まで名古屋弁の楽曲というこだわりよう。

それだけでも十分面白いのに、内容がまた秀逸だったんですね。

まず、主役が74歳のおばあちゃん(!)。だもんですから、当然周辺の人物もご高齢です。
日曜の朝7時から老人が主役のアニメ・・・それだけで「どんな層を狙ったアニメだよ!」と突っ込みたくなりますが、内容がまた凄い。

その時僕が見たのは第3話だったんですが、序盤にしてオッサンが死にます。自殺です。※日曜朝7時です。
しかも猟銃を口に咥えて、足の指で引き金を引くという田宮二郎ばりの方法で死にます。※日曜朝7時に放送してるアニメです。
現場に直前までいた、主役の孫娘・まいちゃんが、それが原因でPTSDになります。※しつこいようですが日曜日の朝7時の番組です。前番組は女子小学生に人気のアニメ「しゅごキャラ!」です。

絵柄はほのぼのとしていて「サザエさん」や「ちびまるこ」的なのに、この壮絶な内容、しかも日曜日の朝7時!。
他の放送回では、近所の認知症のじいさんが若い娘の風呂を覗いたり、後家のばあさんに嫉妬で殺されたり、主役の友人(もちろん老人)が新興宗教に騙されたり、近所のインド人労働者が工場主に搾取されたあげく強制送還されたり・・・と、なぜこの時間に放送してるのか?、ターゲットにしてる年齢層はどこなのか?、と全てにおいてシュールなアニメだったんです。

やっとかめ探偵団』に、すっかり虜になってしまった僕は、東京に帰ってからも、毎週日曜の朝7時には某掲示板の「テレビ愛知・実況スレ」をチェックし、動画サイトにUPされるのを心待ちにしていたのでした。


僕が初めて見た放送回↓
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案の定、視聴率は奮わなかったらしく、14話で打ち切りとなってしまったようです。
しかし、放送時間や放送局(当時テレビ愛知の一局で放送)が違えば、もっと話題になってしかるべき名作だと思います。少なくとも、子どもが見て「面白い」と感じるアニメだとは思えません。


そう考えてみると、「面白い」って、出会いなんですね。
まあ商業作品であれば、マーケディングやリサーチ不足を原因とした「失敗」なんでしょうが、一億総表現時代の昨今、埋もれた、というか、出会っていない「面白い」が沢山あると僕は思います。
これは当然といえば当然で、個人がいたるところで表現しているわけですから、多チャンネルすぎて、無数にある表現から、自分に合ったものが容易に見つけられない。

各ブログサービスや、ストリーミングでも、「面白い」の最大公約数にはすぐに出会えますが、それが誰しもにとって「面白い」とは限らないわけです。
年齢、教養、趣味、嗜好・・・、自分の「面白い」に出会えない人たちが、「面白い」の最大公約数を「つまらない」「くだらない」と感じた時、コンテンツ自体の評価も「つまらない」になってしまう。
例を挙げれば、「はてなは主張系で、年齢層が高い」「mixiは若年層と、ライトなネットユーザーが多い」なんて話はよく聞きます。
実際にはそんなことも無いのだろうけれど、こういう先入観がユーザーに蔓延すれば、コンテンツ自体が島宇宙化してしまって、尻すぼみになってしまうと思うんですよね。

まあ結局何が言いたいのかというと、

ニコ生1000枠になって(自分的な)良放送になかなか出会えないから、もっと細かくゾーニングしてくれ!、あとはてなも。

という事でした。

やっとかめ探偵団 (光文社文庫)

やっとかめ探偵団 (光文社文庫)

特に引用はしてないけど、今回の参考文献

テレビのからくり (文春新書)

テレビのからくり (文春新書)

表現者は「オカシイ」のか?


10年位前にヤングサンデーで『殺し屋1(イチ)』というマンガが連載されていたのですが、当時『BURST』あたりをサブカル気取りで読んでいた僕は、グロ表現に然したる抵抗もなく、むしろ「変態」な登場人物が興じる物語を毎週楽しみにしていました。
僕の心をもっとも掴んだのは、過激な描写や性表現ではなく、登場人物の倒錯に対する表現です。
「絶望」を欲している究極のマゾ・垣原や、究極のサド・イチの持つ世界観は、まさに倒錯者然としていて、「痛みってのは身体で感じるんじゃなくて、脳で感じる云々」とか、「本当はやられたいから、やられたくないって言ってる云々」(うる覚えですいません)なんてセリフに、多感な年頃だった僕はワケも分からずグッときてしまったのです。



時同じ頃、ビックコミック・スピリッツで山本直樹が『フラグメンツ』なるマンガを連載していました。
僕は中学生ぐらいから山本直樹の作品が大好きだったのですが(それもどうなんだという話だが…)、彼の描く登場人物の、空虚かつ淡々とした、狂気とは異質の「オカシさ」みたいなものが、独特の死生観と性的倒錯と相俟って、とても魅力的に感じたわけです。
著作権云々もアレなのですが、「引用」の範囲内で画像を載せました。

夕方のおともだち (CUE COMICS)

夕方のおともだち (CUE COMICS)



そういえば誰かが言ってた。「マゾにとって、『お仕置き』が快楽であるならば、『お仕置きされない』ということが最大の「お仕置き」である。ということはマゾにとっては、『お仕置きされない』ということは最大の快楽、ということになる」



単純な「快感」とか「痛み」ならば、それは元々生物に備わっている「生理的反応」であるのだろうけども、「嬉しい」とか「恐ろしい」という感情は、想像・連想という意味で「感じる」ことのできる人間ならではのものであって、その深遠にある構造みたいなものを論理的に分析できる筈なんですね。
そういった意味で、淡々としたエロのなかで時として現れる山本マンガならではの理屈っぽさは、ある種、純文学的な「人間の内面」まで踏み込んでいるのではないかと感じます。
狂人、変態、変わり者と言ってしまえばそれまでなんですが、考えてみれば、谷崎潤一郎三島由紀夫安部公房も、こうした「倒錯」や「オカシさ」に踏み込んでいるんですね。
痴人の愛』はロリコンでマゾの変態、『金閣寺』は人格障害パラノイア、『箱男』は妄想と覗き趣味…。しかし、いずれも日本を代表する文学で、多くの人に読まれ、評価されています。



思えば人間は誰一人として同一の個体は存在しない。ゆえに誰しもが差異としての「オカシさ」を持っているわけです。では何故「オカシイ」かといえば、それは社会の規範や価値観の同一性といった共同幻想みたいなものに、どれだけ参加できているか、換言すれば、どれだけ多数の価値観を共有しているか、というところに「普通」という基準があるわけで、そこから逸脱したものを「オカシイ」と呼ぶわけです。
ですから我々は、人間という世界に参加する上で、いわば社会性として「オカシさ」を抑圧して日常を過ごしているのですね。



普通の人々は日常生活の上で、「オカシさ」を表出することはそうないのだけれど(たとえあっても、社会性を備えた上での「個性」として許容される範囲内で)、その抑圧されたものは厳然として存在するわけで、だから小説や映画・漫画など創作物を通して、「オカシさ」の客体として追体験を望むわけです。
そう考えてみると、大正期の「エロ・グロ・ナンセンス」といった通俗的なものから、純文学や絵画、音楽といった芸術にいたるまで「個性」や「独創性」が評価され、「常人では表現できない」ある種の「オカシさ」が内包されているとも言えますね。




では少し日常に置き換えてみましょう。

インターネットの普及により、一億総表現時代と言われている昨今ですが、僕の日常にはニコ生等のストリーミングや動画投稿で「表現」する人たちがいます。
掲示板の書き込みには、この配信者たちを「メンヘラ、キ○ガイばかり」と評する人たちがいるんですね。
ミシェル・フーコーならずとも「そもそも、キ○ガイとは何か?」と問いただしたくなるところですが、仮にそうだとしても、それは前述の理由から当然であって、「普通の人」が表現しても面白くないのです。
「変わった人」がセンセーショナルな表現をするからこそ、表現として成立するわけで、これはあらゆる表現に共通することです。

また、配信している本人も「変わっている」からこそ日常では承認を得られないわけで、「自分を理解してほしい」と強く思える人ほど表現者に向いている、とも考えられます。
そういえばニコ生でも、ゲイの人たちや、風俗業や水商売にたずさわる人など、世間一般から承認されづらい人たち(こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、あくまで一般論として)が多いのも、そのためなのかもしれません。


ちなみに僕の臆見ですが 、本当に「キ○ガイばかり」か?を先入観に囚われずに、しっかり検証してみれば一目瞭然で、決して「ばかり」とは言えません。
「人気配信者は」という枕詞を付けるなら別ですが、大半の配信者は「普通の人」であって、それゆえに目立たず、話題にもならないんですね。まあ僕もそのなかの一人です(苦笑)。

個人的には、「普通の人」が垣間見せる「狂気」だとか「オカシさ」こそ、表現者としての魅力なんじゃないかな、なんて思ったりもするわけですが。
そう、山本ワールドで言えば・・・



これです、これ。
あ、ちなみに僕は、いたってノーマルな性嗜好の持ち主ですよ?。念のため(笑)。



狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における