可能世界って不可能じゃね?

先日、某所で『バタフライ・エフェクト』という映画を見ました。
この映画、数年前に付き合っていた彼女と劇場でも見ていて、今回で3回目の鑑賞だったのですが、改めて「あの時の彼女と結婚でもしていたら、今はどんな生活をしているんだろうな〜」なんて思ったので、今回のお題にしてみたわけです。

どんな内容の映画かというと、自分の日記を読むことで執筆当時の過去に戻ることができる主人公が、その能力を使って人生を改変しようと試みるのですが、バタフライ効果というか「風が吹けば桶屋が儲かる」的な相乗化効果で、周辺の人間の人生まで大きく変えてしまう・・・というストーリーです。
過去を改変することで、「現在」において結ばれなかった幼馴染みと上手くいく「別の現在」。ただし「前の現在」で幸せだった友人が不幸のどん底に落ちていたり、過去を変えたことで本来生じなかった憎悪や恨みによって、新たな不幸が生まれたり・・・。また、選択した未来によって、真面目な学生だった主人公や周囲の人間が、「別の現在」ではDQNであったり、障碍者になってしまったりと、可能世界、平行世界における「現在ないし未来の可能性」をドラマとして描いています。SF映画に分類されるのかもしれませんが、恋愛の要素もあり女性ウケする作品だと思います。

数年前、山下智久長澤まさみが出演していた「プロポーズ大作戦」というテレビドラマがありましたが、もう少しスケールが大きくして、暗めにした映画という感じでしょうか(『バタフライ・エフェクト』のほうが先に公開されていますが)。


ともあれ、「人生をやりなおしたい」とか、「あの時こうしていれば」なんて、誰しもが考えたことがあるかと思いますが、映画を見ているうちに、「人生において、『あの時』に『こうする』という選択が本当にできたのか?、なんて疑問に思ったわけです。

例えば「あの時合格した別の大学に行っていれば・・・」とか、「あの時内定貰った企業に就職していれば・・・」とか、「あの時プロポーズされた○○さんと結婚していれば・・・」とか、「あの時妊娠しなければ・・・」とか、人生の分岐点なるものがあったとします。
こういった悔恨というか未練な思いは、「そうでない選択をした結果」である「現在」から、「別の選択により生じたであろう現在の可能性」ないし「過去の選択そのもの」に向けられているわけです。

しかし僕が思うに、「過去において自分がした選択」というのは、完全に自由で主体的な自分が「選択できた」という事では無く、選択に至る原因に、ある種の必然性があるのではないだろうか、という事があるんですね。
つまり、会社や学校や恋人を選ぶにしても、それを判断する「材料」が必要になるわけですが、この学校の就職率はどうであるとか、企業の業績や将来性だとか、結婚相手の経済力や容姿・性格であるとかの「判断材料」を合理的に判断したうえで「選択」し、「決定」を行う。
ですが、その「合理的判断」というものは人間に生まれながら備わっているものではなく、その人の受けてきた教育であるとか、交友関係など、経験の集積によって価値観が形成されるわけです。
そうであれば「過去の選択」なるものも、人生すべて、生まれてきてから、その「選択」に至るまでの、一秒一秒を選択し続けない限りにおいての「選択」は、その時点で持ちえた合理的かつ必然的なものであって、「その他の選択」は有り得ないのではなかろうかと、そんな事を思ったわけです。



・・・読み返したのですが意味がわからん!
ようは宿命論を構造主義的に云々しようと思ったのですが、拙筆ゆえ表現できませんでした。日常に例えてみます。

僕は遊びでフットサルをするのですが、よくパスミスをするんですね。
僕に限らず、プロの試合を観戦していてもよくあることですが、「左にいる味方がフリーなのに、敵に囲まれている右の味方にパスしてしまう」なんて状況があるとします。

傍から見ていると「左にパスを出せただろう」ということになるんですが、パスを受けた体勢では左に出せなかったのかもしれない。敵がブラインドになっていて左の選手が見えなかったのかもしれないし、右にいる選手がスペースに走っていて、囲まれながらも追いつけると思ったのかも知れない。
つまり、「左にいるフリーの選手にパスを『出せた』」というのは結果論でしかなくて、その選手が持っている経験や判断能力、そのプレーまでの動き、疲労等々すべての要素を鑑みた上で下した「合理的判断」として最善のプレーが、「囲まれている右の選手にパスする」というものかもしれないわけです。

優秀な選手や経験豊富な選手であれば「切り替えして左にパスをする」とか「一旦ボールをキープして味方のフォローを待つ」という選択ができるわけで、スポーツ選手の評価というのはそういうところなのかもしれませんが、「その選手に何故できないのか?」と問うならば、まさしく「材料を合理的に判断する」ためのトレーニングを含めた「経験」であるとか、持って生まれた「才能(身体能力や認知・判断力)」の差異なわけですね。


まあ、結局何が言いたいのかというと、「あの時こうしていたら別の未来があったかもしれない」なんてものは、結果として「こうしてない」以上、そんなもんねーよ、ということです。
平行世界なんざありません!!
そもそも「ある」とは何か?とか言い出すとキリがないのでこの辺で止めときます。



というわけで『バタフライ・エフェクト』の「もうひとつの結末」なるものをニコ動で見つけました。僕のように劇場版とレンタルDVDでしか作品を見ていない方はどうぞ。さらに切ないエンディングですね。
ネタバレになりますので、作品を見ようと思ってる方は見ないでください。楽しみが半減しますよ?
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バタフライ・エフェクト』なんてとっくに見たよ!という方には個人的オススメ

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

玩具修理者 (角川ホラー文庫)


これに収録されている『酔歩する男』が面白い。
バタフライ・エフェクト』もそうだが、昔からSF本道の小説よりも、こういった「時間」とか、『1984』的な「グロテスクな未来」って何か魅力的なんですよね。
一応ホラーに分類される作品ですが、いかにもホラー小説といった怖さはありません。しいて言えば「世にも奇妙な物語」的な怖さでしょうか。

ネット発信と「お金」

「ニコニ広告」なるサービスを初めて利用してみました。
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このサービスは、他人が作った動画に対する評価として、応援する挿画をランキングや検索で目立たせるというものです。ユーザーが投下する金額の多いものほど、より目立てて、再生回数も増える仕組みになっています。
僕がこの動画宣伝に払った金額は300円と小額ですが、サービス自体の認知度が低い現状では、それでも結構目立てたりするんですね。


さて、「一億総表現時代」なんて言われる昨今ではありますが、「お金を払ってでも自己表現したい」という人はいても、「お金を払ってまで、この人の表現を応援したい」という人は、まだまだ少ないんじゃないかと思います。
「総表現」と言っても、誰しもが他人の評価を得られる表現能力(手段・発想・行動力含め)があるわけではありませんし、「○○はワシが育てた」というタニマチ的な後援も、行為としては十分に「表現」になりうるわけです。しかし、その利用率はいまだに低く、ニコ動に限らず多くのネットユーザーにとって、ネットコンテンツはタダで利用できてあたりまえであり、アマチュア創作を「評価」はしても「対価」は支払いたくない、なんてのが現状なのかもしれません。

ニコニ広告のようなサービスが、ビジネスモデルとして成り立つかはまだまだ未知数ですが、「広告」を出しても商業的な利益を享受することのない個人が「評価」としてお金を支払う行為は、(義務感を伴わない)寄付や勧進に近い。
一般的に日本で「寄付」といえば、村落共同体内での互助会費等、半ば強制的な徴収による「寄付」はあっても、自助意識から行われる自由意志による寄付は非常に少ないと言われています。
「お金は何かと引き換えるもの」という意識がまだまだ強い日本では、自己充足のために評価として「だけ」の金銭の支払いに結構抵抗があるのかもしれません。

では、日本以外の国ではどうなのかというと、これが案外成り立っているんですね。
先日、NHKBSで『市民発ニュースが社会を変える』(http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=608&date=2009-07-11&ch=11&eid=20649)というドキュメンタリーを見たのですが、政府や企業の影響力を受けないために運営の全てをボランティアと寄付金だけで賄う「デモクラシー・ナウ」(Democracy Now!)なんて左翼系のメディアがあって、これが結構認知されていたりするんです。(日本でもCS朝日で放送されてるようです)
そんなのイデオロギーに感化された一部の連中が寄付してるだけだろう、と思われるかもしれませんが、「寄付」が文化(自助の精神も含めて)として根付いている国ですから、そういうこともあるのかもしれませんね。
あの有名なスミソニアン博物館もスミソンさんの寄付金で建てられたという話だし、日本国内での寄付は年間7000億円程度なのに対し、アメリカ国内では2000億ドル(20兆円以上)の寄付がなされているというし(http://money.goo.ne.jp/column/child/08/0314.html)、まあこのへんは文化の違いです。


話が横道にそれてしましました。表現にユーザーがお金を払う、という話でしたね。
個人がメディアに対して行う寄付は、メディアや番組に対する後援の意味と同時に、「その放送が面白かったからお金を払う」という、いわば「料金の後払い」という性格のお金です。
コンテンツを直接売る(有料配信)、広告を代行する(広告費)、という既存メディアから続く2つの収益方法が、構造的に変わりつつある時節(「ネットはタダの意識」、媒介を必要としない広告等)において、活路はこういうところにあるのかもしれません。
しかし、「デモクラシー・ナウ」は政治的メディアです。人は娯楽に対して「後払い」するのでしょうか。

どうやらこれも成り立っているらしいんですね。
アメリカでは新聞もテレビも廃れてしまって、最も影響力があるといわれているメディアはラジオだそうなのですが(車社会のアメリカならではですね)、そのなかでも一番人気のラジオ局「NRP」(=ナショナル・パブリック・ラジオ)は、出演者はノーギャラ、経営はリスナーからの寄付金で成り立っているそうなのです。(町山智浩談。詳しくは→(TBSラジオクラウド) ついでに「新聞が廃れている」というのは、またもBSドキュメント。7月20に再放送があります。→(http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/090711.html))


コンテンツがあるから僕らもこうして「発信」ができるわけで、コンテンツを作る企業も、「企業」であるからにはどこかで利益を出さなければならない。
NPRの「寄付」のビジネスモデル、多くのフリーライダーを抱えながらも、支えたい人間がお金を出して支える、というシステムは、ニコニコの運営だけでなく、動画投稿職人やストリーミング配信者のあり様についても考えさせられてしまいますね。


英語の出来る方のためにNPRのリンクを貼っておきます。ポッドキャスト配信もあるので、日本でも聞けますよ。(NPR : National Public Radio : News & Analysis, World, US, Music & Arts : NPR

他、参考コンテンツ『文化系トークラジオ Life』2009/06/28放送 「日本のネットは進化したのか」(文化系トークラジオ Life: 2009/06/28 「日本のネットは進化したのか」 (濱野智史ほか) アーカイブ)←こちらもポッドキャストで聞けます。 

ダーウィンの悪食

10年以上前、某大手食品メーカーの子会社が展開する中食チェーンの店(ようは宅配弁当店)でアルバイトをしていました。

そのお店には「銀ダラの西京焼き御膳」なる商品があったのですが、ある時、社員さんが「うちの銀ダラの正体は‘メルルーサ’っていう深海魚だよ」なんて言っていたんですね。
まぁこれは昔の話で、近年はJAS法も改正されてそんなこともないのでしょうが、「深海魚」なんて聞いていい気はしません。
実際はアンコウ、タチウオ、ムツ、キンメダイ、スケトウダラ等々、私たちが日常的に口にする魚も、れっきとした深海魚なわけですが、インターネットが一般的でなく「ググる」なんて言葉も存在しなった時代、「深海魚」なんて聞いたら、
こんなのや
20090708014154 
こんなのかんじの
20090708014555
グロテスクな姿を想像してしまいますよね。
まさに「スキーマ効果」というやつなんでしょうが、当時まだ純真無垢(言い換えれば阿呆)だった僕は、それからというもの社販の「銀ダラの西京焼き御膳」に手を付けなかったわけです。

ちなみにメルルーサは、ちゃんとした食用魚で、こんなかわいい姿をしています。念のため。
20090708015330


ともあれ、何故こんなことを思い出したかというと、最近こんな本を読んだからなんですね。

回転寿司激安のウラ (宝島SUGOI文庫)

回転寿司激安のウラ (宝島SUGOI文庫)

年がら年中経済的に困窮している僕にとっては、たとえ回転といえど立派な「高級寿司」なんですが、一般的に「安い」とされている回転寿司、一皿100円かそこらで、鯛やらヒラメやら伊勢海老やらアワビやらと高級食材が扱えるわけありません。安いのには当然それ相応の理由というか、偽装というか、欺瞞があったりするんです。
先述の銀ダラの正体がメルルーサだったのと同じように、鯛はテラピアアメリカナマズ、ヒラメもアメリカナマズ、伊勢海老はウチダザリガニアメリカザリガニ、アワビはコロ貝、ラバス貝、チョウセンボラ貝、アカニシ貝が正体だったりするらしい。
他にもネギトロの正体は、赤マンボウとトロミ油や植物油を混ぜたものだったり、サーモンが着色されたニジマスだったりと、神経過敏な人が読んだら、二度と回転寿司に行く気にならないかもしれません。

すべての回転寿司店がそうとは限りませんが、やはりモノには適正な価格があるわけで、安い値段のモノは何かしら安い理由があるのです。
「偽る」ことや「大事なことを知らせない」店側の商法は当然問題なのですが、「安い」からといって、安易に飛びつく消費者側も問題なわけで、「適正なモノを適正な価格で売っていては商売にならない世の中」になってしまった責任は僕らにあるのかもしれない。
食品に限らず、家電品や日用品にいたるまで「安いモノ」を求め続けていれば、当然そこに投じられる人件費やコストも抑えられて、めぐりめぐって自分の賃金なり収入に返ってくる。そこで更に「安いモノ」を求める悪循環に加えて、健康を害する食品や、「安かろう悪かろう」の低クオリティの家電がはびこれば、それこそ『1984』や『未来世紀ブラジル』のような、グロテスクに階級化、近代化された未来社会が実現するのかもしれませんね。
(前回アレだったので、今回はアレなアレに迎合してみました(苦笑))

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

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ついでなのでもう一つ。
そんな偽装魚の話なんですが、日本でも食べられている白身魚で「ナイルパーチ」なる魚がいます。
20090708024143 
20090708032853 
スズキ目に属する魚なので、もしかしたら僕たちも外食でスズキとして食べているかもしれませんが、ブラックバスなんて比較にならないほど厄介な魚なんです。

まず、見て分かるように非常にデカイ。最大で体長2メートル、体重は200キロにもなるわけですから、当然食べる量も半端じゃないわけです。加えて大型魚なので天敵も皆無。
元々生息していないような場所に放流しようもんなら、あっという間に定住してる魚を食い尽くして、どんどん増えます。

幸いにして熱帯の魚なので琵琶湖あたりに放流される心配はないのですが、放流されてとんでもない被害を蒙っている地域もあるんですね。
それがアフリカ最大の湖・ヴィクトリア湖で、『ダーウィンの悪夢』というドキュメント映画にもなっています。

ダーウィンの悪夢 デラックス版 [DVD]

ダーウィンの悪夢 デラックス版 [DVD]

内容が恣意的だという批判もありますが、グローバリズムの弊害の一端を知るにはいい題材で、非常に考えさせられる作品です。

食料増産の名目で先進国が持ち込んだナイルパーチが固有魚を駆逐してしまい、小船で細々と漁業をしていた地元民の生活が成り立たなくなってしまう。
そして住民は生活のために、先進国の資本が投入された水産会社や食品加工会社に雇用され、「商品」であるナイルパーチは全て先進国に輸出されて、地元民は十重二十重に搾取される・・・という、グローバル化がもたらす構造問題が好きな方には、非常におすすめです。

先進国の「貧困」が、さらに後進国の「貧困」の上に成り立っているなんて、なんともシニカルな世の中ですねえ。





・・・これだけ書いときゃ大丈夫だろ(?)。


 
 

華氏451度のパクリチュール

この週末は(お金が無いかわりに)ちょっと時間があったので、久しぶりに映画を見ました。
数年前だったら、レンタル店に行ってDVDを借りてきたわけですが、P2P等で違法(?)ダウンロードをせずとも、多少のお金を払えばネットで視聴できるんですね。
お金を払わずとも(アップロードに問題はあるんでしょうが)、youtubeニコニコ動画にも、名作やカルト作品があがっています。まあ梅田望夫曰くロングテール云々という効果もあるので、一概に悪いことばかりでもないでしょうが。

今日観た映画は『未来世紀ブラジル
10年以上前に一度観映画なのですが、すっかり忘れていて、初見気分で楽しめました。当時はテリー・ギリアムを知らなかった僕ですが(モンティ・パイソンは知っていたけど)、さすがインテリコメディアンというか、非常にウィットに富んでいる。
『1984』のような管理社会・階級社会の構造をモチーフにしつつ、所々に笑いの要素もあって、娯楽映画としても楽しめます。少なくとも『1984』みたいに徹頭徹尾暗くない(笑)。
しかしながら、こういうある種「完成」された体制・価値観、完全な構造の中で生きる人民ってのも、ある意味で幸福なんじゃあないのかなあ、なんて最近思うのです。
[rakuten:guruguru2:10026715:detail]

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

一口に「自由」とか「幸せ」とか言っても、それはあくまで他者との比較の上に成り立つわけで、絶対的な価値基準はない。
働かなくていいぐらい財産があって、時間や社会的責任から「自由」だったとしても、「何もしなくていい」状態が楽しいか、幸せか、といえば一概には言えませんね。
逆もまたしかりで、例えば近世日本の農民が、確立された体制や身分制のなかで抑圧されて「不幸せ」だったかというと、決してそんなこともない(だから幸せだったとも言えませんが)。
要は「誰々より幸せか、自由か」という問題で、そこに対する矛盾や不満が社会思想として昇華して、ドラスティックな変革をもたらしたのが近代の歴史なんでしょうが、行き着くところまでいって、初めからすることが決っていて、もう絶対にひっくり返らないほどに権力・暴力・情報が集中して確立している社会であれば、生きていくのは結構「楽」なのかもしれない。
[rakuten:book:11904707:detail]

まあ、あんまり掘り下げて放言してるとポストモダン左派みたいな人に怒られそうなので、この辺で本題。


一億総表現時代なんて言われる昨今、表現に対して「パクり」なんて評価を受け手がつけたりします。
中には1から8,9まで既存作品を踏襲したような、あからさまなパクりもあるのですが、大体は言いがかりレベルの瑣末なものです。
オマージュやインスパイアーなんて言葉もありますが、ウラジーミル・プロップを参照にせずとも、物語の類型なんてものは有限な資源の組み合わせで、現代の創作物というのは大体において何らかの影響を受けているものです。 
そもそも、本当にオリジナル、真に独創的な表現なんていうものがありえるのでしょうか。

スタンリー・キューブリックアーサー・C・クラークと共に『2001年宇宙の旅』を製作した時に、こんなエピソードがあるそうです。
この二人が作品で表現しようとしたものは「科学的に定義された神」。つまり進化の極みまで達した知的生命体を映像化しようとしたのですが、キューブリックは「知的生命体」なるものを見たことがない。
試しにやってみればわかると思いますが、「見たことがないものを想像する」ということはできないんですよ。
例えば「宇宙人」を想像してみたとしても、それは自分が見た既存の宇宙人のイメージでしかなくて、まったく無知の状態から姿を思い浮かべることなんて不可能です。
仮に自分が未知なる「宇宙人」に遭遇したとして、それを他人に伝えようと思えば「タコみたいなやつだった」とか、「ヘビみたいな眼をして、子供のような手足だった」とか、既存のイメージに当てはめて伝える以外できないし、相手も想像できません。

そんなわけでキューブリックは試行錯誤のあげく「想像もつかないほどのものは、想像できないことが分かった」と言って、「科学的に定義された神=究極の進化を遂げた知的生命体」の映像化を断念したんですね。
だから、「進化の極みに達したのだから、肉体なんぞ超越して姿を持たない」なんて解釈の作品となったわけです。
[rakuten:book:13020192:detail]

以上のように、真の独創というものは厳密にはありえない。人間というのは、すでに知っていること以上のことは何も知ることができないし、それを想像することすらできない。想像できたとしても、自分以外誰も理解できないものになるはずです。
では、独創性とは一体何かというと、「既に私たちが知っているもの」を誰もが想像しなかった形にコラージュして、新しいものを作り出すことに他なりません。
竹熊健太郎いわく「『誰一人として考えなかった独創的な作品』などというものは、人類が滅亡するまでこの世には存在し得ない」というわけですから、創作者の皆さんは蒙昧な声に惑わされず、
 パクリ もとい、コラージュに勤しんでくださいね、っと。
そのために「ニコニ・コモンズ」なんてあるわけですから。

魔法昔話の研究  口承文芸学とは何か (講談社学術文庫)

魔法昔話の研究 口承文芸学とは何か (講談社学術文庫)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

孤独な配信者の夢想

今週は殆ど配信しなかったので、久しぶりにガッツリ読書することができました。
「ニコ生の配信頻度を減らして、そのぶんブログ更新する」なんて宣言しておきながら、なかなか区切りがつかないでズルズルと読み続けてしまう。配信中毒を免れたと思ったら読書にリバウンドしてしまいました(笑)。


さて、前回の続きです。
僕の場合もそうなのですが、配信当初は誰しも「主張・表現したいこと」があり、当然自分の関心が高い事柄でしょうから思索も重ねていて、雑談の話題には事欠きません。
しかし日に2時間も3時間も話し続けていれば、おのずと「主張・表現したいこと」も無くなってしまうわけです。それほどの関心事であればテレビに出演する扇情家のように、何度も重ねて主張すればいいのでしょうがそうもいきません。
非同期型のコンテンツでの表現とは異なり、(前回述べたように)コメントで「承認」され、コンテンツ内にコミュニティが形成されることによって、「主張・表現したいこと」が無くなってしまう。 厳密に言うと「表現したい」という気持ちが満たされてしまうのです。
ですから、その領域に持つ知識・見識を浪費し、話題の中心を次々と別領域にスライドさせて、表現欲求を持続しようと努力するわけですね。

僕の配信を例にすると「哲学・倫理→社会学→政治(学)→近代文学サブカル→サッカー→エロ→酩酊雑談…etc」と変遷していったわけですが、一見してわかるように、非常に節操が無い(苦笑)。
これは僕に限ったことではなくて、「雑談」というスタイルで配信を続けていれば(「ゲーム実況」や「企画」系配信にスタイルを変えない限り)早かれ遅かれ通る道で、終いには芸人よろしく(かつての横山やすしビートたけしをはじめ、近年の芸人の傾向として)、私生活の「恥部」を晒してまで「表現すること」にしがみつき、まさに「自分の切り売り」をする配信者は枚挙に暇がありません。

このようにして配信を続けても、いずれは「ネタ」が尽きるわけで、配信当初に「面白い」と感じて見ていた視聴者との齟齬は、次第に大きなものになっていくわけです。
同期型のメディアであるニコ生において、「つまらない」と感じた視聴者は容易にその意思表示ができます。コミュニティからの脱退やコメント投稿でその意思を伝えることができるし、おおかたの配信者はメールやスカイプIDを公開しているので、それらを通じて配信者本人に批評を送ることもできるわけです。
僕の配信においても「演出」として、アンチの多い配信者と絡んで予定調和的に論戦を張ったり、ネット表現に対する僕自身の「信念」に基づいて、自分の個人情報を公開したことがあるのですが、「演出」や「自己決定に基づく自由」に対しての齟齬からか、数人の視聴者からの批判をいただきました。

僕に限らず、内容の変質については配信者本人も自覚していていて、なおかつ「主張・表現したいこと」が尽きているにもかかわらず「承認」を得たいがために配信を続けていることに気づいていれば、たとえ自分の意図するところとは違う、齟齬からの批判であっても、「配信を続けることの意味」を自問することでしょう。
もちろん表現活動をする以上は、そういった批判を真摯に受け止めて反省したり、場合によっては無視して、それを受け入れてくれる視聴者のために表現を続けるべきなのかもしれません。
しかし、表現によって対価を得て、生活手段としているプロであればいざ知らず(あまつさえニコ生では、配信者は月額525円を支払っている)、「自分が楽しむこと」が配信の目的であれば、視聴者の反応等も含めて「自分が楽しい表現」ができなくなった時点で、「配信を続ける意味」は無いのではなかろうか。少なくとも僕はそう思います。


ここに至って「雑談」配信者の多くは、「自分が楽しむ」ための手段である配信が、「承認」に対する欲求とその実現のために目的化してしまっているように思えます。
その結果、多くの視聴者が望まないような「創作」や、新たな視聴者を獲得することを目的とした、センセーショナルなだけの「企画」、配信する側にも視る側にも、暇つぶし以上の意味をなさない「ゲーム実況」へと堕ちていき、そうでない者はひっそりとやめてしまうのでしょうね。


マダオ」について
というわけで、煮え切らないことをごちゃごちゃ述べてきたわけですが、僕が配信を止める理由はその割合が大きいものから並べて4つあります。


その1、配信したいと思うものを出し尽くしてしまった
有り体に言えば「ネタ切れ」です。実のところはそうでもなかったりするのですが、少なくとも「したいと思う」ものは無くなってしまった。これは他所でも述べたのですが、「一度言ったことを二度言いたくない問題」と勝手に名づけた問題です。
僕の放送スタイルは「雑談」ですから、その表現は言葉に頼るほかありません。しかしこの言葉の表現に感情が入れば入るほど、「もう一度言う」ことが出来なくなるのです。現実のコミュニケーションにおいても、相手が同じであれば、一度言ったことを同じテンションで二度言うことは難しいと思います。これは僕だけの実感かもしれませんが、配信においても同じことを二度言う気にはなれないのです。
ネットを介して向き合っている人間が「同じ」とは限らないので、これは自分の実感の問題でしかないのですが、「配信している自分」の状態を考えてみると、「向こう側」は見えないわけですし、ましてや一対多数で「その話聞いた」という人間も含まれるわけで、その様は「違う人間」に対しての語りはイメージし難い。よって、ひとつの表現は自ずから「消費」されていくことになります。
先述した「表現欲求が満たされる」ことと合わせて、「表現したい」と思うものが(ニコ生においては)無くなってしまった、ということがまず一つです。



その2、「消費される表現」に対しての疑問
人が人に何かを伝える時、手段として一番都合の良いものは、パロール話し言葉)による同期型コミュニケーションというやつでしょう。つまりは向き合って話すのが、一番スムーズに意思疎通できるわけです。
これが非同期型であれば、発信者と受信者の間に何らかの齟齬が生じた際、それを解消するのに時間的コストを要します。
エクリチュール(書き言葉)によるものでも同様で、たとえ同期型であっても「文字を打ち込む」という行為自体が、「話す」よりも煩瑣であり、チャットよろしく文章を簡略化が促される場では、本来の表現からの変質し、齟齬が生まれやすい。非同期型であれば尚のことで、主張系(特に床屋政談系)のブログでのコメントの応酬や、2ちゃんねるなどを見れば一目瞭然です。 
とにかく人間というのは、置かれている立場、持っている教養、知識等、物事を判断する資本に多寡があり、コミュニケーションにおいて齟齬が生じやすい。パロールによる同期型コミュニケーションであれば、「分からなければ聞けば良い」「誤解があれば正せば良い」といった表現ができ、その点に可能性を感じたりもしていたのですが、このパロールというのは、聞いた端から消えてしまうものなんですね。
これはテレビと読書の違いと同じで、テレビを「見る」ということは何も考えないでも可能です。「テレビは思考停止のメディアである」なんて評される所以であり、気軽に触れられるぶん、「残らない」わけです。
対して読書は能動的に「読む」必要がある。正確には「読む」こと自体に「文章から状態を想像し、理解する」すなわち、考えるという意味が内包されているのです。
つまり、パロールはコミュニケーションにおいては優れていて、聞いた瞬間は「分かった」気がするのですが、後から思い出せない。反芻して考えることには不向きで、「文字」として残らない以上に、心にも残らないわけです。
そうであれば、ニコ生における配信は間口を広げることを意図した情宣以上の効果は薄く、表現は文章でするほうが理にかなっている。
僕も配信をするにあたって、それなりに思索したりしているので(?)、より消費の度合いが高いパロールでの表現よりも、エクリチュールに落としたいという思いが強くなった、というのが二つ目の理由です。


その3、時間的コスト
自分が配信したいものだけを配信して、他配信を一切見ない、というスタンスで続けられればいいのですが、「雑談」放送は先述のネタ切れ問題も相まって、コンテンツ内(配信者間)の話題が大きくなってしまう。
有名配信者がどうした、誰と誰が仲が悪い、誰と誰が出会った…等々、それらの話題を把握しようと思えば、おのずと時間的なコストが発生するわけです。
テレビのバラエティ番組やワイドショーを「くだらないから見ない」なんて人間(僕のことです)が、島宇宙的コミュニケーションのために一日2時間も3時間もニコ生を見ている。これを時間の浪費と言わずに何と言えるでしょうか。
コミュニケーションの材料として島宇宙的であるがゆえに、バラエティやワイドショーにどっぷり漬かるよりも性質が悪い。「繋がりの社会性」なんて北田暁大が面白いことを書いていますが、

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー)

広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー)

それはともかく、趣味だったはずの読書の時間を割いて(配信のためのインプットでもあったりする)、配信をするために配信を見る、という時間的コストに疑問を感じたことが3つ目です。


その4、不愉快な人たち
ネットのコミュニケーションの常なのかもしれませんが、その能力に乏しい(としか思えない)人たち、有り体に言えば、僕から見て面倒な人たちの相手が煩わしく感じてきたのも理由の一つです。
詳しくは書きませんが、スカイプにログインした瞬間、どう返信すればいいのかもわからないような、 くだらない内容 ちょっと返信に困るような(意味のわからない自分語り等)メッセージを送ってくる人、自分が気に入らないからといって、配信内容にいちいちケチをつけてくる他配信者や視聴者、人間関係の本質を考えず常軌を逸した手段で気を引こうとする人、某団体へのオルグ(信仰や布教は自由だと思うのですが、僕はオルグの対象になり得るんでしょうか…)等々、ここ最近不愉快なことが続きました。
大体のおいて、「俺の思っていることが、必ずしも相手に伝わる」であるとか、「俺が気に入らないから、お前(周り)もこうあるべき」という考えを僕は信じられません。彼らの行動理念は一体どうなっているのか知りたいところですが(この手の「不快さ」は、ディスコミュニケーションに起因することは分かっているのですが)、わざわざ不愉快な思いをして、彼らとコミュニケーションすることが正直煩わしい。
もちろん、配信を通して知り合った人たちの9割は良い人です。ただ、いい事よりも悪いことのほうが、与える印象が大きい。実感として、10回いいことがあったとしても、3回悪いことが続けば、トータルとして「悪い」という印象がついてしまいますよね。



以上の理由から「ニコ生引退宣言」をしたわけですが、配信者、視聴者方々から慰留していただいて、正直決めかねています。
「二代目マダオ」とカメオ出演路線も結構面白いと思うのですが、いずれにしても、今後は拙ブログを中心にやっていきたいとは思っています。配信に関しては、とりあえず未定。


なお拙ブログのコメントでの慰留されると、とても恥ずかしいので遠慮してください(苦笑)

ニコ生遊歩者の眼差し

中二病っぽいタイトルにしてみました(笑)。


ニコニコ生放送のサービスが開始してから、はや6ヶ月。僕も半年にわたって配信してきたわけです。
ブログ開設当初の記事を見ていただいてもわかるとおり、配信を始めたころは、社会批評や政治学、哲学、文学、サブカル等を中心に比較的まじめな雑談をしていた記憶があります。

方々で語られていることではあるのですが、ある程度配信を続けていると、「雑談」というジャンルで表現を続けることが難しくなってくるらしい。今回はこの辺の事情に対する僕の実感について記します。


僕の場合、雑談配信を始めた当初は話題に事欠くことはありませんでした。
いわゆる文化系というやつで、社会科学一般からサブカルチャーまで多読しているほうだったし、稚拙ながらも思索している自覚があったからです。
しかしながら、半年もこのスタイルを続けていると、さすがに話題が尽きてしまう。僕の場合もまさにそれで、社会科学や哲学を中心にしていたのに、いつのまにかサブカルやサッカーに軸がズレてしまった。

これは僕に限った話ではなく、いわゆる雑談系配信者全般に伺える傾向です。
僕のように他の関心領域にシフトする、若しくは「広げる」、ゲーム実況や「やってみた(息を止めてみたり、大食い、歌う、踊る、等々)」にジャンル自体を移行する、企画や動画創作を行う、他配信者と配信内で絡んだり(いわゆるスカイプ凸)、配信者同士のゴシップなどコンテンツ内の話題に終始する・・・など、枚挙に暇がありません。
有名配信者とされる方々も例外ではなく、コメントを読みあげて一言二言レスポンスする女性配信者(必ずしも女性とは限らないが、僕の実感として)を除いて、「雑談」を貫いている配信者を寡聞にして聞きません。


では、話題が尽きないように配信回数を抑えるとか、話題を作るためのインプット(読書や映画鑑賞など)を増やせればいいのですが、これがそうもいかない。
書籍や映画などを批評して雑談しようと思うと、「○○が面白かった」「○○がカッコよかった」など直感を表せばいい「感想」とは違って、それなりの下準備と分析が必要になります。
その作品や作者が持っている背景や、手法に関する素養がない雑談は、「これがよかったよね〜」「そうだよね〜」という感情の共感装置でしかなく、突き詰めれば、その配信者の配信である必要はありません。
つまり、付け焼刃的なインプットでは雑談として成り立たないのです。

雑談配信をするにあたって、「関心領域を限定して、配信回数を抑えつつ、インプットを続けながら分析、思索していくという」プロセスを踏まなければ、継続していくことは難しいというのが僕の実感です。しかし、これが言うほど簡単にはできないんですね。

以前も拙ブログで書いたと思うのですが、「自分の表現が他人に評価され、承認される」という気持ちよさは、得も言われぬものです。
承認欲求を充たしたいという感情は、(そう簡単に承認されないので)知識の蓄積や思索を経て、本来であれば創作や表現に昇華されるものなのでしょうが、ことニコ生というコンテンツ内では、簡単に充たされてしまう(というように錯覚してしまう)。
その快感なり共感を得たいがために、本来であれば表現のレベルに無いものを表現してしまうわけです。いわゆる「配信中毒」というやつです。


以上のようにして、魅力的な雑談配信者が、その自覚もなく、意味もオチも無い「gdgd(グダグダ)雑談」と同じレベルに堕してしまう。
惰性で続けられる配信には視聴者側も飽きてくるので、過日、来場者も減り、これに気がついた配信者は、変質するか配信をやめてしまうのだと思います。


今回はここまで。
次回は、表現欲求についての続きと、配信表現の時間的コスト、他配信者・視聴者との齟齬について書く予定です。





「政治家の政治性」から思ったこと

先日、日本郵政社長の進退問題とやらで、鳩山総務相が辞任されました。
僕は現実政治や政局といったものにあまり興味がなく、支持・不支持政党もないし、西川社長の進退について思うところも何も無いのですが、「正しいことが通用しなかったら潔く去るべきだ」「いずれ歴史が私の正しさを証明してくれる」という彼の言葉には、ああ、やっぱりこういう人なんだなあ、という思いを持ちました。
「政治」を職業とする政治家であり、「政治」を実践する閣僚が、自分の信念としての「正しさ」を強調する行為に対して、その「政治性」を疑ったわけです。


もちろん、彼はポピュラリティを前提とした政治の世界に生きる人間ですから、選挙や支持といったものを意識した、高度な政治的発言である可能性もありますが、「友達の友達がアルカイダ」「ペンタゴンに食事をご馳走してもった」なんてことをサラッと言うような人なので、きっと素の発言なのでしょう。


まあ、郵政社長進退の是非は別として、このように何かを「正しい」とか「悪い」とかを簡単に言い切れるというのは結構すごい。
サラリーマンや中小企業の経営者が居酒屋でしている政治談議ではあるまいし、「利害の調整」を旨とする政治世界の一線に身を置く人間が、自己の正当性を確信して、更迭されても「私は正しかった」と言い切る姿には、首を傾げてしまいます。
しかし世間では、結構これが好評らしいのです。


読売新聞の緊急世論調査http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090616-OYT1T01304.htm?from=y10)では、「鳩山総務相を更迭する必要はなかった」という回答が65%、更迭にともなって麻生内閣の支持率は22・9%に下落したそうです。
この記事にもあるように、単純に「郵政問題で鳩山氏を支持する国民が多い」ということだけではなく、(鳩山氏の行動・言動を含めた)今回の騒動に対しての評価として、内閣支持率下落といったことなのかも知れませんが、リスナーから意見を集う某ラジオ番組やネットの掲示板を見てみると、鳩山氏を好意的に評価する意見が多いようです。(あくまで僕の実感でしかありませんが)


この件に限らず、ともすれば頑迷な信念を尊大に押し通すことを「気骨がある」「一貫している」と衆望を集める例は、枚挙に暇がありません。
複雑な問題(本来、政治の俎上に乗る問題は、すべからく複雑なのですが)を、正しい・正しくないと、二項対立で論じることに対しても同様です。
その意味では今回の鳩山氏の行動が、かなり政治的に見えてきたりもしますが、元秘書で政治ジャーナリストの上杉隆によると「性格的にそういうことができる人物ではない」そうです。(http://www.tbsradio.jp/kirakira/2009/06/post-157.html ポットキャストを期待してたのですが、音源なし)


それはさておき、なぜ僕が現実政治に興味が無いのか?、をあらためて考えてみると、この「論点の単純化」と「二項対立」が原因かと思うのです。
僕以外にも、「政治家って馬鹿っぽい」と漠然と思っている人は少なくないと思いますが、この「馬鹿っぽさ」の所以が「単純化」と「二項対立」なのではなかろうかと考えます。

しかし、政治家が本当に馬鹿かというと、決してそうではありません。
国会中継、特に予算委員会の質疑などを聞いていると、かなり踏み込んで、且つ、理路整然としたやりとりが行われる。
官僚の作文でなくとも、委員会レベルであれば相当な専門的知識を持っている議員も多いですし、もっと俗な事を言えば、世間並み以上の高学歴揃いが論戦しているわけです。


では何故、僕たちは「政治家って馬鹿っぽい」と感じるのでしょうか。
それは、一般大衆が政治家の言葉に触れる場所が、選挙と選挙前に限られるから、と僕は考えます。
現実問題として、よほどの大事件でもない限り、国会中継の視聴率なんて1〜2%がいいところです。一般的な社会人であれば当然働いている時間の中継ですから、当然といえば当然なのですが、多くの人は見てもせいぜい党首討論ぐらいのもので、予算審議すらさして関心を払わないわけです。
そうすると、僕らが政治家にイメージするのは、(複雑な政治問題や高度な外交折衝など、あまり理解していない)大衆に向けた、単純明快な二項対立式の政治主張をする「馬鹿っぽさ」になってしまいます。


ことさら強調するわけではないのですが、社会というのは様々な立場の人間がいて、その立場の数だけ様々な利益・不利益が存在します。
その様々な人間の「利害の調整」こそが政治の本質であるのに、何かしらの「正しさ」にコミットして論敵を貶めたりあげつらったりすることが、僕には上品な行為とは思えないのです。
だから、床屋政談ならぬネット政談をする気になれないし、興味も持てない。しかしこれが「政治史」になれば、結果も先にあるわけで、一歩引いた客観的評価に対して、説得力も生まれてくるわけです。
そういうわけで、僕は「現実政治」には興味がなく、「政治史」が好きなのでした。


しかしながら突き詰めて考えていくと、「利害の調整」をするに当たって、その立場を代表する折衝材料が必要なわけですし、選挙に勝つためには「気概」「信念」なんてのが結構重要だったりするのもまた事実なわけで・・・
「考えるという行為は、答えを出さないことである」と誰かが言っていましたが、「政治」はともかく「政治家」に向いているのは、自分に「答え」を出せる人間なのかも知れませんね。そうであるならば僕は絶対に向いていません(笑)


というわけで本日の一書

政治的なものの概念

政治的なものの概念


原書を読まない僕ですが、田中浩先生の信者なので珍しく買いました。政治的態度を「友」と「敵」に分類する、「友敵論」のシュミットの著作です。『政治神学』と一緒にどうぞ。そういえば最近、「友愛の政治」なんて仰られてる議員先生がいますね(笑)


近代政治思想史―思想と歴史のダイナミズム (講談社学術文庫)

近代政治思想史―思想と歴史のダイナミズム (講談社学術文庫)


ついでに(?)僕のフェイバリット政治学者・田中浩先との出会いの一書を紹介。概論的なものですが非常に理解しやすいと思います。